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「できないこと」を諦める



簡単なことでいうと私は食材を買うのが苦手だ

スーパーに並んでいる食材を選ぶこと。

誰でもできるようなことだがとても時間がかかってしまう

なので諦めてネットスーパーで自動的に届くようにしている。

反対に私は服を買うのが早い。色で迷うこともない。

だから買い物が苦手、というわけでも、優柔不断、というわけでもない。どちらかというと即断即決で後悔することもないので、ただ食材を買うのが苦手で時間がかかるというだけのことだ。

買い物に時間がかかるとそのぶん帰りが遅くなってお酒をのむ時間が少なくなる、というのもいやだ

消えゆくものを1週間に2,3度とか買うのはとてつもなく面倒である。


10代後半で「人を好きになること」を諦めた

ぜんぜん他人(および自分)を好きになることがなかったので、単純に無理だから一人で生きていこう。それか実家にずっといよう。と考えていた。

だが19歳のときに今の夫に出会い、私は好きという感情がなんなのかわからないながらも、面白いから観察したい、という気持ちになり、夫は私のことがとても好きらしいので、この機会を逃すと結婚など一生しないだろうと思い、結婚した

これからいろんな人と出会うかもしれないし恋愛するかもしれない…など微塵も考えなかった。

ただ1番先に手を挙げたのが夫だっただけだ


私は恋愛感情はないが、ものすごく情はある。

一度認めたらずっと情で繋がっていられる

逆に言えばわりと皆を愛せるのかもしれない。


おなじころ、「子供をもつこと」を諦めた

これはもう仕方ない。10代のうちに卵巣をほとんど失くしてしまった。

ただ、病気じゃなかったらつくるのか、と言われたらそれこそ無理だ。

ひとをひとりしあわせにするなんて、その責任を負うなんておそろしい。産めばなんとかなる、というのは他人に何度も言われたことがあるが、私には本当にこわい。98パーセント以上の確率で社会的不安も経済的不安もなく健康ですくすくと育つ、という保障がなくてはむりだ。

98パーセントと書いたが、本当は140パーセントはなくては無理だ、したがって諦めるしかない

だが、逆の考えが多数だからこそこの世界は続いている。私の考えだと世界はすぐ滅びる。

私は私の考えで生きているのであって、他の人の考えをどうしようとも思わない。産めばなんとかなる、だとしても、子孫繁栄するのはよいことだ。尊いことだと思う。

ただ、私にはできない。それだけ。

結婚して20年弱だけど、夫が子供欲しかったら外で作っても良いし、でもそうすると相手が可哀想だから離婚しても構わないと言ってある。

夫がそっちの方が幸せだったら良いと思う。

そうなったら少し喜んでしまうかもしれない。私だって夫の子供の顔は見てみたいから。


人にはそれぞれの愛があって、成就しないものへの愛だってあっていいし、生まれないものへの愛があったっていい。自分が関わらないそのままのモノとか概念とかへの愛、私にはそういうものがある気がする。

好きなものが自分のもので、好きなものも私のことが好き、ということは全然のぞまない。あまりそこは関係ない。存在がそこにあるということでじゅうぶんだ。

私が好きなものが私を好きなんてことは奇跡というか、ほぼないといえる。イコールなんてない。ありえないことはのぞまない。なにしろ私は0か140%の人間である。

まず自分以外のモノから愛をもらおうという考えがない。

テレビの中や本の中の人への想いに近い。本の中の人に話しかけて欲しい愛してほしいと望むか?本の中に入り込んで世界観を壊してまで登場人物のひとりになりたいと思うか?

私にとってそれが現実であり、私以外のものは、私がキャストでない物語なので介入不要なのだ。

それでも誰かには関わって生きていかなければならないが。


大人になって「こうしなければならない」という数多くの事柄から脱出できて、生きやすくなった。

「できないこと」でも「できること」に変えなければならないということはない。

できなくても、できないことを忘れて、生きていけばいい

こどものころはできないことばかりで、恐ろしかった

努力してもできないこと、ほかのみんなができるのにできないこと。それがとてつもなく恐ろしかった。じぶんには欠陥がある。と思い込んでいた。

そうだったかもしれない。でも、できなくても生きてはいけるから。

諦めることは悪じゃない。

みとめることだ。

声高に言うようなことではないが私はそうやって生きていく。








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