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日記(2021/04/22〜04/28)

2021/04/22(木)

「中動態」の発露には、教室的な要素・ある種の閉鎖性が不可欠なのだろう。『中動態の世界 意志と責任の考古学』を読んだのはもはや4年前なので記憶があやふやなのだが、この本の刊行記念で行われた國分功一郎氏と大澤真幸氏の対談の中で、楕円形のイメージをもとに中動態の概念が説明されていた。私はこれを、ある種の「教室」のイメージとして理解した覚えがある。

現代において説かれているコミュニケーション術/論、ナンパ術/論を俯瞰してみると、この「教室」のような空間についての話が全くされていないと感じる。

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追記:宮台真司のナンパ全盛期=90年代は、(教室的な閉鎖性がないように思える)”ストリートでも”宮台氏はナンパに「中動態」を使えたのだろうか? まだその頃は世界はひとつの教室だったのか?



2021/04/23(金)

私は、継続的に「かまってちゃん」について調査している。その理由というのは、ラカン=ミレールが晩年に重要視した人物たち(e.g. ジョイス、シェーンベルク、デュシャン…)のことを、私は「かまってちゃん」であると診断しているからだ。

この診断=仮説をもとに、日本(世界)を見ていきたい…というわけなのだが、「かまってちゃん」についての言説がなさすぎて、止まったままになっている。



2021/04/24(土)

エリック・ロメールの映画では、登場人物たちが日常生活の中で繰り広げる会話から、あるとき突然、「恋愛」に関する高度に哲学的な会話へと接続される。

比べて、私の周りで為される恋愛話はどうだろうか。彼氏がどうのとか、セフレがどったらだの、本当に細かい、個人的で、「あっそ…」としか言いようがない話が繰り広げられている。まあ、そういう話が楽しい時があることも否めないが、普通は聞いていて楽しくはない。

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追記:



2021/04/25(日)

フランス映画史における、ほんっっっとうに初期の話=ジョルジュ・メリエスの登場と、現代におけるTik Tokの関連性について考えたのだが、特に何も得られなかった。



2021/04/26(月)

小6女子による、『すとぷり』に関する講義を受けた(いま学校で流行っているらしい)のだが、イマイチ理解することができず、悲しくなった。


そして、以下のツイートをした。

「新・自我」とは、現在のラカン派において議論されている、「話存在」という主体概念を指す。私の研究の独自性は、この主体概念を、これまでのような「分裂なしの穴」として捉えずに「分裂ありの穴」として捉える点にある。

ここから派生した、実際的な話は、また次の日記でしたい。



2021/04/27(火)

今日から毎日、ジョギング(穏やかな速度で走る)をすることにした。時速約10kmの速度で走る。2019年までは毎日やっていた習慣なのだが、2020年の3月以降はコロナの関係もあって、その習慣をやめてしまっていた。

私は、筋トレ的なものに対しては(思想的に)否定的なのだが(参照:B.G.V.の過去ツイート)、散歩だったりジョギングだったりという運動に関してはすこぶる肯定的だ(追記:なんか、筋トレもジョギングも、「終わりがない」という点ではそんなに大差はないのかも…)。

フランスの哲学者であるロジェ=ポル・ドロワは、「歩くこと、話すこと、考えることは、すべて一つの巡りのなかにある」という仮説のもとで『歩行する哲学』なる著作を書いているが、まさしくその仮説は正しいであろう。まず歩かなければ(=横方向への倒れかけと持ち直しをしなければ)、話したり考えたりすることはできない(ごめんなさい、今手元にこの本がないから、詳細は書けません。詳しくは『歩行する哲学』を読んでね)。

「横移動っちゃ横移動だけど、なんであなたは”歩き”じゃなくて”ジョギング”なの?」と言われれば、それは「ジョギング jogging」の語義に関わっている。英語の動詞「jog」には、「穏やかな速度で走る」という意味の他に、①「〈乗り物などが〉”揺れながら”進む」②「〈記憶などを〉呼び起こす」という意味がある。つまり、「頭=脳を”物理的に”シェイクすることで、記憶を呼び起こす」というわけだ。確かに「歩くこと」も魅力的なのだが、やはり「ジョギング」に比べると頭の物理的な揺れが少ない。仕事柄、私は頭の中を常にごちゃごちゃさせながら、色々な物事について考えていきたいので、『歩行する哲学』をアレンジし、「歩き」を「ジョギング」に変えて、それを実践しているというわけなのだ。

走っている最中、やはり発見があり、そしてアイデアが思いついた。



2021/04/28(水)

フロイトの1908年の論文、「ヒステリー症者の空想と両性具有に対するその関係」について思うことがあり、これを読んだ。

このテクストにおいてフロイトが語るのは、《いまここに1つの見えるものでありながら、同時にもう1つの見えるものを演じようとしてしまう》というヒステリー症者の二重性である。ここでは、その症例として、片方の手で女性用の服を、もう片方の手で男性用の服を自分にあてがう患者の症例が挙げられている。

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(図1:Bstroy  "Sweet Screams"(2018))

これについて私が何を思ったか、ということだが、なぜフロイトはその症例から、一度は棄却した師ブロイアーの心的モデル(心が障壁のようなもので二つの部分に縦に分裂している)へと戻らずに、自身の心的モデル(心は横に重層的に構成されている)にこだわり続けたのだろうか?ということである。

フロイトは、ヨーゼフ・ブロイアーというオーストリアの精神科医に多くを学び、1895年にブロイアーと共著で『ヒステリー研究』という本を出版したりしているのだが、この二人の考える人間の「心」の構造はそれぞれ異なっていた。ブロイアーは、上に書いた通り、心が障壁のようなもので二つの部分に縦に分裂しているものとして考えていたのだが、一方でフロイトはそれを棄却し、心は横に重層的に(玉ねぎのように)構成されていると考えていた。

そんな中、フロイトは上で述べた通り、片方の手で女性用の服を、もう片方の手で男性用の服を自分にあてがう患者と対峙するわけだが、フロイトはブロイアーの心的モデルに関して再考することもなく、自身の心的モデルに固執し続ける。この症例を考えると、ブロイアーの心的モデルの方が妥当に感じるのだが。

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(図2:GUCCI  Milano Collections AW2018-19)

これはなぜなのか?ということを考えた(特に何も得られず)。


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今週は、なんか、すごく腰が痛くて辛かったです。



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