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日記(2021/03/25~3/31)

2021/03/25(木)

高橋雄一郎著『身体化される知——パフォーマンス研究』を読んだ。なぜ読んだのかと言えば、現在私が研究していることに関連するからだ。私は今、フランスの哲学者・精神分析家であるジャック・ラカンという人物の晩年の思想について研究している。具体的にどんな研究をしているのかざっくり言えば、人々の間で「連帯」することが難しいポスト・モダンの社会で、それでも「連帯」を実現するための思想を晩年のラカンを足場に考えるというものだ。この研究は最近になってようやく、ラカンが晩年に言及した日常生活におけるある特殊な”パフォーマンス”をフィーチャーするという具体的なプランがまとまり、「パフォーマンス」の調査をはじめたところだった。そんな中で出会ったのが、この本である。本の内容は、この世のありとあらゆる「パフォーマンス研究」(非日常的な芸術から、日常生活におけるものまで)の網羅的紹介。特にヴィクター・ターナーの「過渡性」(*1)とリチャード・シェクナーの「行動の再現」(*2)という概念に焦点を当てている。知らないことばかりで勉強になった。

合わせて、美術手帖2018年8月号『特集 ポスト・パフォーマンス』を流し読み。これは芸術寄り過ぎてあまり参考にはならず。


(*1)過渡性(Liminality)は、イギリスの人類学者ヴィクター・ターナーによって提唱された概念。既に確立されたある特定の文化的秩序が、パフォーマンスによって転覆させられた状態のこと。

(*2)行動の再現(Restoration of Behavior)とは、パフォーマンスは一度だけで終わる行為ではなく、幾度も、時にはほとんど無限に繰り返されるということを表したもの。リチャード・シェクナーは、「行動の再現」の反復の過程で生まれるズレによって、文化的に新たな意味が作られる可能性を主張している。



2021/03/26(金)

「文系」の誇りが失墜した現代で、如何にその誇り(文系的学問と一般の人々の繋がり・信頼関係)を再建するか?/できるか?ということを真剣に考えた。ゲン○ンの現在の活動(=シラスというプラットフォームの立ち上げ)は偉大だが、シラスの場合、既に地位を持ってサバイヴできている人間だけのポータルであるため、サバイヴできていない文系学者(能力のある)の発掘はできていない。いかに文系学者の「出口」を作っていくか。その際にキーワードとなってくるのは、「占い」「リーディング」なのかな、というひとまずの結論。



2021/03/27(土)

早起きし、近所の喫茶店へ。作業中にふと、国語の塾講師バイトをしていた時代のことを思い出す。

そこから比喩についていろいろと考えた(蓮實シゲヒコ→フローベール→外山シゲヒコ)。「真の比喩」とは、ある対象とその比喩との関係性が「ただの偶然」「なぜその二つが結びついているのかよくわからない=俳諧性」でしかないもの、という結論。



2021/03/28(日)

3/23(火)に映画『あのこは貴族』を観てから、すっかり頭の中が山内マリコ脳に。地方の没個性的な環境に自分が埋もれてしまう(=何者にもなれない)という不安を抱きながら、救いとしての都会(=超越性)に憧れるも、完全にはその都会という世界にノることが出来ず、地方と都会のどちらにも自己という存在を定着できないまま、存在がその中間を浮遊してしまうという山内マリコ問題にどう対処したら良いのか?を考えた。

難しく考えれば、これは、①集団的・統計的に把握されるような認知科学的なパラダイムと②危険な「崇高=オウム」的超越性の程よいバランスを考えるということになる。変に超越性に強く憧れても、危険な超越性である「崇高=オウム」に繋がりかねないから、リアルな日常を「まったり生きろ」とはオウム事件後、社会学者である宮台真司によってよく言われたものだ。この、通称「まったり革命」に納得していないと、「お前…」みたいな感じで冷ややかな視線を受けがちだが、山内マリコ作品の主人公たちは納得することが出来ない(=幻想を抱かず、リアルだけが充実した”リア充”になれない)。そりゃあそうだよねえ。これについてはスイスの精神科医ルートヴィヒ・ビンスワンガーも述べている通り、人間は本質的に「思い上がる」存在なのだから。人間は日々の生活の中で、平凡でそこそこな人生に満足することができず、あるときに何らかの至高体験を求めてしまうものであると。

だから、二つの方向(①と②)の程よいバランスの取れたキャッチーな(そうでないと広まらない)解を提示しないといけないわけです…。そういうことについて今日は考えました。



2021/03/29(月)

某本屋のトイレにて、なんか良いなあと思い、パシャリ👇。

床に直接トイレットペーパーを置くのはアレなんで、ひとまずちょっと高くしてみました〜♪的な(「汚さからの回避」という効果はあんまり無さそう)。昨日の山内マリコ問題と接続してあれこれ考える。こういう軽〜いスピリットに解がありそうだ。



2021/03/30(火)

山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』収録の「地方都市のタラ・リピンスキー」を読む。傑作。山内マリコ問題解決へのキーは、この作品に特に現れているのではないかと思った(まだ言語化できないけど、物語の最後の方で主人公が不遜にも、他者がすべきことの扇動者としての生き方を納得する点?)。

また、ネタバレになってしまうが、なぜ山内マリコは女性化した男性を主人公にする必要性があったのだろうか。調べても出てこない。



2021/03/31(水)

安永浩=オズワルド・ステュワート・ウォーコップのパターン逆転論を切り口に、デリダの「脱構築」、そして『存在論的、郵便的』について考えた(強迫神経症の現象学的精神病理学からデリダの「脱構築」の意味を捉え直す)。ここで紹介できるような「まとまった何か」を得ることはできなかったが、「このまま進めば何かを得られそうだという感覚」は得られた。なんのためにデリダ?と言われれば、そりゃあ、ラカン後期思想のアップデート(ラカンの弁護?)のためなのですが。


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…今週はなんだかバカっぽい1週間だった。


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