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日記(2021/04/08〜04/14)
2021/04/08(木)
私の好きなアーティストであるMurcofの新しいアルバムが5/21にリリースされるらしい。先行で2曲、公開されていた。
「Underwater Lament」はハービー・ハンコックの「Rain Dance」的な(というか、ものすごく似ている)ドローンジャズ(?)だし、「Dividing space」は自分の好みな感じだし、リリースが楽しみだ。
2021/04/09(金)
仕事でガン萎えするようなトラブルがあり、急な雨に打たれ、電車は遅延し、まあまあ悲惨な一日だった。
あと、以下のツイートをした。
「現代に生きる者として、日本という宿命にどう向き合うか」という問いを、これまで蔑ろにしてきてしまったが、やっぱりまずいなあとこの頃思う。80年台的な日本=空無という否定も、90年台的な開き直りによる肯定も、00年台以降的なニヒリスティックなそれの受容も、どれも現代には不得策な気がする。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) April 9, 2021
このツイートは、以下の私の過去のツイートとも関わってくる(まあ、以下で挙げられてる人たちは日本という宿命の受容の歴史うんぬんを考えず、ただ国外への輸出戦略として「日本的なるもの」を利用している〔”J回帰”でもない、何もないもの〕だけであるが)。
毎日、どこかでこのツイートのことを考える。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) May 10, 2019
どうしたら、岡倉天心から進歩できるのだろうか。 pic.twitter.com/vtiJrL2rHv
皆さんは、「日本に生まれた(てしまった)という宿命」についてどう思ってますか? 考えたりしますか?
2021/04/10(土)
(再現性が重視される)スポーツは、コンセンサス(理想的な型との合一)を達成しようとするまさにその身ぶりを通じて、コンセンサスの否定、見解の相違(dissensus)の契機を導き入れなくてはならないのであり、そうでなければスポーツ自体が成り立たなくなる。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) January 30, 2020
これ👆をさらに展開して、スポーツに関して何かを言いたいのだが、そのフィールド(足場)が見つけらんない。なんかないかなー。
2021/04/11(日)
👇私ぢゃん…。
https://www.afpbb.com/articles/-/3339580
2021/04/12(月)
(これは佐々木敦『ニッポンの思想』で分類されているものであるが)本屋にある「思想」書が以下の4つのジャンルしかない貧相な現代において、新しい「思想」書の形態を生み出すとしたら何が考えられるか? ということを考えた。
①偉い人の教え本
内田樹、鷲田清一など。あるいは『超訳〇〇』みたいに、哲学者が人生論を語るもの。
②文化左翼本
左翼的なことを言ってる本。佐々木中、斉藤幸平、などなど。とりあえず深い?思想なしに左翼的な(資本主義批判?)言説を繰り広げる人たち。
③純粋な思想本
アカデミックなもの。基本的に売れない。
④オタク系本(東浩紀系)
東浩紀を代表とした(まあ今ではオタク論はやってないけど)、いわゆるオタク系の言説。宇野常寛、濱野、福嶋など。
実は、この四つのジャンルのどれにも属さない、新たな第5勢力として戦っていけるような(さらに、一代だけで終わるものではなく、後続者が生まれるような)ジャンルのアイデアが2つほどあるのだが、メディアの問題(以下で説明する)にブチ当たり、いまだに実現できないでいる(あと5年以内にはなんとかしたい)。
第5勢力として活躍するには、もちろん、「有名になる」という条件も含まれるが、それ以上に、その勢力が所属しているメディアの独自性?のようなものを発現していかなければならない(これがメディアの問題)と思うのだ。
例えば、①の偉い人の教え本だったらブログ、②の文化左翼だったらテレビ・ラジオ、③の純粋な思想本だったら大学、④のオタク系だったら初期ネット(あるいはゲンロンという独自プラットフォーム)…というような。
今現在、私が持っている2つのアイデアというのは、上のどのメディアにも属していない(と思う)ので、将来性・可能性が感じられる一方、そのメディアが果たして具体的に何なのか、明示することはまだできていないため(というかそんなメディアは存在し得るのか?)、悪戦苦闘している。
2021/04/13(火)
今日はジャック・ラカンの誕生日であり、今年(2021年)で生誕 120 周年を迎えるらしい。そんな今日、自分としては大きな発見?があった。
(以下、専門用語ばかりになってしまい誰も興味ないと思うが、後期ラカン理論をフロイトより前のブロイアーの時代まで「帰らせ」、無意識の新たなパラダイムである「話存在」の構造をブロイアーの心のモデルから捉え直すと…オッ! みたいなもの)
日記だけじゃなくて、ある程度まとまった論考”のようなもの”(誰でもわかる・何も知らなくても読める)も、noteに書いていこう…。
そして、「てか、今やってるこのnoteって日記じゃなくね? ただ思考の移り変わりを記述しただけじゃん…。リアルな日常生活のアレコレがゼロじゃん。」 みたいな気持ちになった。方針を考え直そう…。
2021/04/14(水)
「この世界は無根拠だからこの生を引き受けなければ」とする凡庸系(極限=ハイデガー)、「無根拠だからこそ別の生もあり得たとして無責任に逃げ続ける」ポモ系、「この世界の無根拠を知り、さらに別の生の可能性をも知り、その上でこの生をとりあえず引き受ける」郵便系。どれも分裂に対し否定的?
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) April 13, 2021
ある種、(自主的な/軽度の)分裂を否定せず、「そのまま」の第一人格と第二人格が併存する半分半分の状態を新たな主体概念として提示する「話存在」は、これら三項目に属さない第四勢力として確立することができるだろうか。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) April 13, 2021
①精子が一匹だけの精液のたった一発の射精、②精子なし精液の大量射精、③一億匹の精子を含む精液(通常)の、人並みの射精(通常)、④??? https://t.co/aAiw9dlgwW
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) April 13, 2021
あんま反応がなくて哀しかったので、ここで再掲。今の哲学の行き詰まりは、(男性的)シングルタスク信仰に依るのでは?というもの。
以下、かなり雑な説明になってしまうが(というかこれはB.G.V.によるラカン読解・解釈なので、テクスト原理主義者の方は読まないことをオススメする)、現在のラカン理論周辺では、ひとりの中に二つの異なる”実体”を持つ主体概念(ある種の二重人格の肯定?)についての探究が為されている。
これまでの哲学で考えられてきた主体概念は、①一人の実体(この生を絶対視して引き受ける=凡庸系)、あるいは②多数の可能性とゼロ人の実体(ポストモダン系、”ゼロ人”というのは実存がなく、無責任だということ)、あるいは③「多数のあり得たかもしれない可能性の中に私はいる」という認識を持った一人の実体(デリダ=東的散種、郵便系)として考えられてきた。これらは全て、ひとりが、ある1つの実体を決定するという主体として在った。
だが、最近の(繰り返すが、これはB.G.V.によるラカン読解なわけだが)ラカン理論では、ひとりが、ある2つの実体を決定するという主体概念(これをラカンワードで「話存在」と呼ぶ)を考えているのだ。これはポストモダン的な「多様性」(その他のあり得たかもしれない自分の可能性はたくさんあるけど、最終的に・一度に選べる「自分の数」は1つだけ)とは異なる。
え? それって単なる「無意識」を持つ主体なのでは? と思われるかもしれないが、それとは微妙に違う。最近話題のエヴァンゲリオンで説明すると、フロイトの無意識的主体はシングルエントリーのエヴァシリーズであり、ラカンの話存在的主体はシングルエントリーのエヴァ8+2号機である(結局シンでは出なかったけど…)。
かつてのフロイトの精神分析理論では、「抑圧」 された表象によって「無意識」なるものが形成され、それをもとに人間は主体化を行っているとされた。しかしながら現代においては、人々はSNSを用いて常にデータベース的な表象の空間に接続し、自己の内面を何の制約もなしに「露出」している。このような状況をみて、現代のラカン派では、「フロイト的無意識はもはや衰退してきてしまっている」と考えている。すなわち、・・・。
・・・と続けて行こうとしたが、あくまでこのnoteは「日記」なので、詳細についてはまた別の機会に書く。上で挙げたツイートは、そんな話存在的主体概念の可能性について述べたわけである。
「…で? だから何? そんな風に頭の良さの競い合いして何になるの?」って思う人が多いだろう。そうならないために、この概念の実践の可能性についてもまた別の機会に書くことにしたい。
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今週も、迷走気味な、何を見せたいのかよくわからないnoteですみません。
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