オミナエシ

「オハヨウゴザイマス。」


無機質で温度のない挨拶を交わす。


冷たい色の蛍光灯が作る空間。古びた冷房がヴーと耳障りな音を立てている。


荷物を下ろし、ロッカーを開いて、制服を取り出すと同時にため息をつく。


変わらないいつもの夜。午後九時五十二分。


あと八分。


急がなければならないが、その一つ一つの動作が重い。


制服に袖を通すと、先ほどよりもいっそう深いため息が床へ落ちる。


こんな日常をいつまで続けるのだろう。


不甲斐ない自分を呪っても世界は同情などしてはくれない。


行き場のないフラストレーションを抱えたまま、それでも生きるために、持ち場へと向かう。


窓の外は真っ暗で、空には星ひとつ見えない。



 延々と続く単純作業。


不意に、押し殺したはずの感情が私をロボットから人間に戻す。


それは今朝の出来事。


「お姉さんさ〜、声は良いけど伝わるものが無いよねぇ。ま、頑張って。」


そう言って百円玉をギターケースへ放り投げた若い男を恨めしい視線で見送ったのが始まりだった。


路上で歌い始めてもう六年が過ぎ、私の歌を好きと言ってくれる人はいたが、未だ大きな手応えはない。


歌を否定されるのはこれが初めてではなかったし、生来少し罵られたくらいで心に傷を負うような繊細な人間ではなかったが、この日は少々虫の居所が悪く無性に腹が立つ。


雑念を振り払うようにギターを掻き鳴らし、再び歌い始めようとするが、男の言葉が纏わりついて離れない。


六年・・・雨の日も雪の日も必死で歌い続けた。


その六年がかえって心に歪みを生んでいたのかもしれない。


私には、才能が無いのか・・・


そう呟くことすらどうにも馬鹿馬鹿しく思えて、ただギターケースの百円玉を情けなく眺めることしか出来なかった。





 四月一日。


まだ肌寒い朝の風を肌に感じながら、初めて歩く通学路。


はらはらと舞う桜の花びらが小川へと落ち流れてゆく。


「綺麗だな」


誰もいない路地で誰にも聞こえないよう微かな声でそう呟き、先に見えた小さな石段を跳ねるように飛び下りた。


駅から電車で十五分ほど行った先にわたしの通う高校がある。


新しい生活に期待がないわけじゃないけれど、わたしはただ静かに過ごせたらといいとだけ願う。


それが嘘偽りのない本心だと思っていた。


駅に続く大通りへ入ると、穏やかに流れていた時間を壊す雑音が次第に大きくなってくる。


人の雑踏、車のエンジン音、感情に蓋をかけるノイズの中、一つの旋律が心に留まった。


力強いギターの音色と歌声。


何か揺れ動くものを感じながらもその正体が分からなかった。




 しとしとと降り落ちる雨。


もう一週間も続く長雨の中、わたしは今日も少し離れた場所から彼女の歌を聴いていた。


あの日わたしに生まれた情動の答えを知りたかった。


何よりも雨の日も風の日も意に介さず歌う彼女の力強さに強く惹かれていた。


どうしたら、彼女のようになれるだろう。


どうしたら、人前で堂々と歌を歌ったり出来るんだろう。


そんな風に考えるようになっていた。



  


「でもわたしには無理だよな」


誰もいない路地で、誰にも聞こえないように、呟く。


晴れた空は青青と、緑は深く、夏色が濃くなり始めた。


人知れず描いた夢はとりあえず胸にしまったまま、変わらない静かな日常をなぞる。


駅へと続く大通り。


もう少し歩くと彼女の歌声が聴こえてくる・・・はずだった。


今朝の彼女は俯き加減にギターを鳴らすだけで歌っていなかった。


そんな日もあるのかと始めは物珍しい気持ちで眺めていたが、一向に歌う気配のない彼女の様子に、少しずつ心配と不満の気持ちが募る。


いつもは数人の見物客が足を止めているその場所に、今日は誰も足を止めない。


時間にはまだ早かったが、わたしは学校へと向かうことにした。


 

 彼女が歌わなくなって三日。


わたしはなぜ彼女が歌うことを止めてしまったのかどうしても分からない。 


何かしてあげられる事はないだろうか。


長い間、彼女を見てきたけれど、彼女はわたしが見ていたことをきっと知らないし一度だって話したことはない・・・


気付けば動かない言い訳ばかりを探している。


ああ。そうだ。


彼女の歌声を聴いてるうち、気づいていた。


あの日の情動・・・それは、感情に蓋をして安全な場所から決して抜け出そうとしない臆病な自分への憤りだったんだ。


あの日の歌声は、わたしの中にずっと留まって。


今もこんなに勇気をくれる。


行こう。気付いたなら、動いてみよう。


一歩、二歩。


遠かった貴女の音が近くなる。


頑張れ。わたし。大丈夫。少し話をするだけ・・・!


「あ、あの・・・」


言いかけた瞬間、聴き覚えのあるメロディがわたしの声をかき消してしまった。


思わず聴き入ってしまう。大好きな貴女の歌。


でも、違う。


わたしの好きな歌はこんなに物憂げじゃなくて・・・


そんな想いがこみ上げて来た時、わたしは自然に貴女の歌を口ずさんでいた。


 


 いつまでこうしているのだろう。


楽天的な私は、挫折をすることも夢が終わるなんてことも、これまで考えてもみなかった。


諦めるなんて大嫌いだけど、惨めったらしく縋るのはもっと嫌だ。


どこかで区切りをつけなきゃな。


真っ直ぐに夢を追った日々を思い返しながらギターを鳴らす。


この曲を作った時はどんな気持ちだったっけな・・・


今ではもう色褪せて確かなことは思い出せないや。


私らしくないか細い演奏に腹が立つのを通り越して乾いた笑いが出そうになる。


そんな時。突如として私の演奏に乱入者が現れた。


私とは似ても似つかない真面目そうな女の子。


思い詰めたような苦しそうな顔で、私の歌を口ずさんでる。


覚えてくれたんだ、なんて思うよりも先に、驚きで呆気に取られてしまう。


私のギターが止まると、女の子はハッとしたような顔をして、逃げるようにどこかへと走り去っていった。


え、何だったの今のは。


突然の出来事に気が抜ける。


私はしばらく女の子の行った先を見つめながらも、手は無意識にギターを強く握りしめていた。




 あっという間に改札を抜けたわたしは、息を乱しながらも平静を装って電車に乗り込んだ。


暴れる心臓が一刻も早く鎮まるように深く息をする。


いくつもの感情が駆け巡った後で、わたしの中に残ったのは高揚感だった。


憧れの貴女と少しでも触れ合えたことに対してか、それとも大勢が行き交う雑踏の中で歌うことが出来たことに対してか。


車窓に映る紅潮した顔は僅かに笑みを浮かべていた。



 

 季節は巡り、何度目かの秋の日。


「おはよう」


今日も待っていてくれたあなたに温かい挨拶を交わす。


やがて、二つの声が重なると、見頃を迎えた鮮やかな女郎花がしおらしく風に揺れた。

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