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最期の願い〜祖母と過ごした日々〜

『ばーちゃん、何かしたいことはないの?』
私は点滴が繋がれた祖母に問いかける。
祖母はにっこり笑いこう言った。
『ばーちゃんの最期の願いはね……だよ。』

祖母との思い出

私は子どもの頃、忙しい親の代わりに祖母に面倒を見てもらっていた。

祖母はあらゆる経験をさせてくれた。
自ら車を運転し、私を山や海に連れて行った。
ボウリングが得意で一緒にボウリングをしたり
自転車の乗り方も教えてくれた。

そんな祖母はいつまでも元気な人だった。

しかし、そんな祖母もいつの間にか80代になった。

最初の異変は些細なことだった。
『なんか、ずっと痒いんよ。これ何やろか。』
そう言った祖母の全身には赤い湿疹が点在していた。
畑仕事をする祖母だ、何かの虫刺されだろうか?
そんな風に思いつつ祖母に
『とりあえず皮膚科行ってみなよ』
そう伝えた。

祖母はしばらく皮膚科に通院したものの
湿疹が改善する様子はなく
むしろ悪化していた。

そのうち腹部症状や息苦しさを訴えるようになった。

なんだかおかしい…
看護師であった私は嫌な感覚を覚えた。

祖母はその後
私が勤務する病院へ入院することになった。



検査入院

検査は気管支鏡の検査で2泊3日予定であった。
祖母も『2泊3日くらいならまぁいいね。よろしくね』
そうニッコリと微笑んだ。

祖母は入院中も明るく
『皆さんに孫が世話になってます!って挨拶しといたからね』と言って病棟を歩行していた。

しかし、そんな祖母はふとした時に
激しく咳き込み、血痰が出ていた。


気管支鏡の検査の日は私の勤務が休みで
祖母に付き添っていた。

検査の準備が進み、やがて検査室に祖母は入室した。
検査室の前で椅子に座っていると
不意にドアが開き、馴染みのある呼吸器科の医師が話しかけてきた。

『今、検査してるんだけど……実際に気管支鏡の状況見た方がいい。』
そういいつつ検査室へ入室するように私を誘導した。

医師の表情は険しいものだった。

入室し検査の状況をみると肺の一部から出血していた。
医師は『出血も結構あるから1週間は入院した方がいいね。まぁ無理しないようにゆっくり過ごしましょうね』と祖母に言いつつ、私の方を向き生検をすることをジェスチャーで伝えた。
祖母は意識がある状態で検査を受けている。そのためあまり直接的なことは言えなかったのだろう。だが、映し出された映像をみると肺の状態が良くないことは明らかだった。

検査が終わりナースステーションで改めて医師から病状説明があった。

『肺の状態見てもらったけど、なかなか酷かったのはわかるよね。そして、あなたのお婆ちゃんは血液検査でHTLV-1が陽性であることと、他の症状から見てもATLなんじゃないかなと思ってる。まだ生検結果待ちだけど、あなたも、あなたの家族も保健所で血液検査した方がいい』そう説明があった。

ATLとは別名、成人T細胞白血病リンパ腫といい、簡単に言うと血液のガンだ。HTLV-1というウイルスが原因で西日本の地方の人に保菌者が多い。

だが、HTLV-1に感染しても生涯のATLの発症率は2〜5%だ。祖母はその低確率を引いてしまった。

HTLV-1は出産時の母子感染や血液感染や性行為感染が原因で知らず知らずに子どもに感染していることがある。現在は妊婦健診の項目で感染の有無を調べるが、その検査は平成22年から開始であり、祖母の時代にはなかったため家族に感染している可能性がある。そのため家族の採血検査をを勧められたのだった。

…祖母がATLかもしれない。そう聞いて思わず俯いてしまった。
80代の祖母だ、何か病気をしてもおかしくはない。だが、よりによって発症確率2〜5%を引いてしまうなんて…。なんで祖母が…。そんな思いが頭の中で駆け巡った。


数日後生検結果が出て、改めてATLの可能性が高いと診断があり血液内科に紹介となることになった。

祖母に
『一旦退院になったけど紹介状持って別の病院行かないといけないって。』そう伝えると
『あらー…。そうかぁ…。まぁ、なんとなるやろ』と言いつつ天井を見上げていた。


血液内科

後日、紹介状を持ち血液内科に紹介となった。
改めて血液内科の医師から説明があり
祖母にも病名が伝えられた。

祖母は黙って話を聞いていた。

その後の治療方針としてそのまま経過を見るか、化学療法かの選択を迫られた。
化学療法は抗がん剤投与の事だ。体力がなければ受けることができないが、祖母は年齢の割に体力があった。

祖母にどうするか問うと
『…難しいことはわからん。ただ、今のキツイのが少しでもマシになるなら治療受けようか。』
そう言った。

後日入院し化学療法が開始となった。
幸い、副作用はそれほど強くないようだった。

ある日面会にいくと、抗がん剤治療中の祖母が言った。

『…正直言ってくれ。ばーちゃんもう、長くないんやろう?あんたの病院から移るって聞いた時、もうよくないことは薄々わかったさ。あんたはこの点滴どう思うね。』そう諦めたような表情で言った。

しばらく言葉に詰まり、現実を伝えた。
『…先生からは何もしなかったら半年って。もし治療したら年単位になるかもしれないって。点滴の治療はキツイなら家族みんなとも話して今後ここと考えでもいいと思う』涙を堪えてそう伝えるのが限界だった。

口にして改めて痛感したのだ。
祖母は何もしなければ半年なのだと。

祖母は何がしたいだろう…
そう思い尋ねた。

『ばーちゃん、何かしたいことないの?』

そういうと祖母は
『ばーちゃんの最期の願いはね、ピンピンコロリだよ。ばーちゃんはね、やりたいことなーんでもやってきた。後悔しないように。だからね、最期の願いはピンピンコロリなんよ。死ぬ時は眠るように死なせてね。あんたも人生いつ終わるかわからんのよ。後悔しない生き方しい。』そう笑いながら告げたのだった。

祖母の言葉に笑顔で
『わかったよ。』と返答し病室を出た。
車に乗り込み1人なると様々な感情が込み上げ、しばらく涙が止まらなかった。


治療から苦痛の緩和へ

祖母はそれから化学療法を続け、治療の合間には自宅退院していた。
しかし、徐々に体力が落ち
行動範囲も狭まり認知症が発症するようになった。
だが、認知症発症後も家族を忘れることはなかった。

治療効果も乏しくなり、自宅での対応も困難になってきた頃、医師からこう告げられた。

『正直これ以上の治療は難しいです。今後のことについてご家族で相談してください。』と。

ついにこの時が来てしまったんだなと落胆した。

祖母は歩けるものの、認知症があり常に監視が必要な状況であった。また、身体症状の苦痛は、かろうじて薬で抑えている状態であった。

その時、祖母の言葉が頭をよぎった

『ばーちゃんの最期の願いはピンピンコロリだよ。』

…祖母は苦痛なく最期を迎えることを望んでいる。そうなると現状もう出来ることは治療ではなかった。

家族で話し合い、抗がん剤を辞めて緩和ケア病院へ入院し、苦痛をとる事に専念することとなった。


だが、その頃世間ではコロナウイルスが蔓延していた。

その結果面会制限がかかり、面会は叔母や私の母のみ可能となった。

状況を母親から聞くと医療用麻薬を用いて苦痛緩和を行っているとのことだった。


それから面会ができず数ヶ月経過した頃
1日だけ面会許可が出た。


面会へ行くと祖母は医療用麻薬の影響でうつらうつらしていた。

全身は浮腫み、酸素を使用している状況であるものの表情は穏やかであった。
その様子を見て
(あぁ、苦しさや痛みは無さそう…よかった)と心の中で安堵した。

ベットの周りを片付けていると、物音で祖母が起きた。
『ごめん、起こしたね』と言うと
『あぁ、やっと来てくれたんね。何故かみーんな来ないんよ。そもそもなんでここにいるんだか。家に帰って畑しないといけないのにね。』と呆れたように言った。
祖母にはコロナウイルスの影響で面会できないことを伝えているそうだが、認知症の影響もあり理解ができていないようだった。

『なかなかの来れなくてごめんね。苦しくない?』と言うと
『苦しくはないけどチューブ色々あって絡まって嫌ね。』と笑いながら言った。

その後しばらく会話をしていると
病棟看護師が面会終了の時間を告げた。
その間は僅かに10分ほどだった。


『またね!ばーちゃん!』

そう言いつつ退室したものの、面会制限がある以上これが最期の会話になることはわかっていた。

家に帰り声をあげて泣いた。
私にとっては最期の貴重な10分だった。


それから数ヶ月経過し
祖母が亡くなった。
最期は眠るように亡くなったと聞いた。

葬儀に行くと穏やかな祖母が横たわっていた。

そんな祖母に
『ピンピンコロリ…とまでは行かなかったけれど
あまり苦しまなかったと聞いたよ。少しは願い叶えられたかな…ゆっくり休んでね』といい手を合わせた。


それから数年が経過した。
何か伝えたいことがある度に祖母の墓に行き手を合わせている。
何か元気をもらえる気がするのだ。

そして祖母に心の中で
(後悔しない生き方するから安心してね。)
と告げて墓を後にするようにしている。



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