見出し画像

〖ひふみ神示】からの⬜️🟦🟨🟥⬛️【¿会心?(改心!)の一撃】その二(フ)

みなさま?

🌞(オハ)🌝(バン)🌏(チ)ハ。

さて、前回の“キ„事の続きとなりますが、

前回の内容は?

〔東京“五輪„〕を⦅ボ〜っと⦆テレビ観戦している

¿モナカ?(さ•な•か!最中!!)に突然、

伯母の¿五リン十?(ご臨…
みまかり!!)の

知らせを受け、さらに¿ボ〜?(呆!ぼ•う!!)然として、

様々なことに想いを馳せながら塞ぎ込んでいた

¿モナカ?(喪中は“もちゅう„!!!)に、

〖ひふみ神示】を

良く良く“ヨミ„返しておりましたところ…

“自身で閉ざしていた„

〔心の戶
(岩戸?)〕に“氣„づかされ、

“自身の中にある„

その戶を一つ?開かせていただいたという、

( われながら不謹慎極まりない表現での💧 )

内容でございました。

⬜️【 “二度目„の衝撃…】

そして、このような執筆を再開するにあたり、

“のほほ〜ん„と構えて記事の内容を考えていたモ…

最中に、“またしても„このような

既報が入り、おそらく多くの方々が、

一度は耳にしたことがある?と思われます

有名な某ゲームのテーマ曲が、今年開催されました

〔東京“五輪„〕の開会式で使用されたことや、

そのゲーム自体を遊んだことのある方々であれば、

おそらくはご存知だと?思われます

〔“会心„の一撃〕という言葉に絡め、

〖ひふみ神示】に繰り返し記載される

〘“改心„〕とは、

( 具体的に何について語られているのか?)

といったことをメインテーマとして、

筆者なりの解釈?を執筆しておりましたので…

そのゲーム音楽を作曲された方の“突然の既報„にも

“衝撃„を覚え、話題として扱うことを

( 控えた方が良いではないか?)

と、思わず考えさせられてしまいました。

(既に伯母のみまかりを話題にしておりますが…)

ひふみ神示 第七巻 日の出の巻 
(昭和19年12月1日 - 12月29日) (全23帖)
第十帖 (二二三)
桜咲き神の御国は明けそめにけり。十月になったらぼつぼつ会得るぞと申してあろがな。叩(はたき)かけてばたばたと叩く処もあるぞ、箒(ほうき)で掃く処もあるぞ、雑巾かけしたり水流す処もあるのざぞ、掃除始まったらばたばたに埒(らち)つくと申してあろがな、めぐりだけの事は、今度は何うしても借銭無しにするのざぞ、花咲く人もあるぞ、花散る人もあるぞ。あめのひつ九のかミの御神名書かすぞ、それを皆の者に分けてやれよ。聴き度い事はサニワで聞けよ、何んなことでも聞かしてやると申してあろがな、神せけるぞ。火吹くぞ。火降るぞ。十二月十日、ひつくのか三。

出典: ひふみ神示 全文 (スマホ対応) サイト様 より

(※太字は筆者による強調)

🟦【時代と共に?】

ただこのように、

社会的に有名な方々や身近な方との

〔死別〕という出來事は、

この世に生きるみな様の人生にも

“何かしら影響„を及ぼす事柄ではないでしょうか?

また、身近な方を亡くされる瞬間は、

遺された近親者にとって、辛く、苦しく、

また、哀しくも寂しくもあるもだと思われます。

そのため、亡くなられた方々の葬儀を執り行うのは、

そのご本人様の“ご供養と共„に、

“遺された方々のために行う儀式„である

といったお話しなども、

筆者は伺ったことがございます。

そして、おそらく大凡の日本人のみな様も?

何方かが亡くなられた際の葬儀などは元より、

その後もお寺さんなどにございます

お墓や納骨堂などに、

亡くなった方々のご遺灰を納めることで、

〔仏教〕的な行事などに

一度くらいはお世話になられたことも

あるのではないか?と存じます。

しかし、【近年】では

墓じまい„などという言葉も既にございますように、

日本人の〔仏教〕との向き合い方も

少しずつ“変化„して來ているのかも?しれません。

また、そのような【時代の移り変わり】に加え、

【現代】ではインターネットの普及により、

仏門〕に帰依したり〔様々な宗教〕などに

入信したりせずとも、

〔宗教的思想〕などや〔宗教的知識〕などと共に、

“玉石混淆„な〔スピリチュアル〕などの

“情報„を手軽に得られる【時代】。

〔宗教〕などに全く興味がないといった方々を含め、

おそらく多くの日本人のみな様が、

“漠然„と受け止めている?と思われます

“輪廻転生„といった

〔仏教的思想〕などにつきましても、

もはや世間のみな様“お一人お一人„が、

移りゆく【時代と共に】

〘改めて〙“見直さなければならない„のかも?

知れません。

ひふみ神示 第五巻 地(九二)つ巻 
(昭和19年9月15日 - 10月11日) (全36帖)
第八帖 (一四五)
祓ひせよと申してあることは何もかも借銭なしにする事ぞ。借銭なしとはめぐりなくすることぞ、
昔からの借銭は誰にもあるのざぞ、それはらってしまふまでは誰によらず苦しむのぞ、人ばかりでないぞ、家ばかりでないぞ、国には国の借銭あるぞ。世界中借銭なし、何しても大望(たいもう)であるぞ。今度の世界中の戦は世界の借銭なしぞ、世界の大祓ひぞ、神主お祓ひの祝詞(のりと)あげても何にもならんぞ、お祓ひ祝詞は宣(の)るのぞ、今の神主 宣(の)ってないぞ、口先ばかりぞ、祝詞も抜けてゐるぞ。あなはち、しきまきや、くにつ罪、みな抜けて読んでゐるではないか、臣民の心にはきたなく映るであろうが、それは心の鏡くもってゐるからぞ。悪や学にだまされて肝心の祝詞まで骨抜きにしてゐるでないか、これでは世界はきよまらんぞ。祝詞はよむものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それ丈では何にもならんぞ。宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ、神主ばかりでないぞ、皆心得ておけよ、神のことは神主に、仏は坊主にと申してゐること根本の大間違ひぞ。九月十九日、ひつ九の☉。

出典: ひふみ神示 全文 (スマホ対応) サイト様 より

(※太字は筆者による強調)

🟨【借銭とめぐりとカルマ?】

また、

〔仏教〕における【
カルマ(業)】というものも、

おそらく本來の意味としては?

筆者自身も陥り続けていた

(未だ克服しきれてるとは申せませんが…)

自らの失態や過ちを思い悩む【自責の念】などや、

その“個人的問題„を解消出来ていない自身を

“執拗に貶めて塞ぎ込んでしまう„ような、

【自己否定感】などを“抱え続ける„こと。

また、現世
(この世)を生きているみな様の中でも

“心配症な方„や“大きな悩み„などを抱えた方々が、

良く陥りがちではないか?と思われます

“同じようなコトばかり„に(思いを“めぐらせ„)

過去のことや将来のことを“くよくよと思い悩む„

ような【不毛な“思考の繰り返し„】など。

または、

自らで積み上げた“功績や過去の栄光„などを

他人に誇示するような【虚栄心】などや、

資産や財産と呼べるような“ご自分の持ち物„などを

「 手放したくはない!」

という【執拗な執着心】などに捉われ、

誰にも奪われまいと守り続けようとする

頑なな【独占欲】を“抱え続ける„ことなどの

【“想念そのもの„】を【カルマ(業)】と表現し?

〖ひふみ神示】に於いても、

その【“想念そのもの„】を

〖取り払い
(祓い)済ませる(澄ませる)こと〗を

〜祓ひせよと申してあることは何もかも借銭なしにする事ぞ。借銭なしとはめぐりなくすることぞ、〜

と表現しているのかも?知れません。

🟥【宗教の在り方とは?】

と…

やや堅苦しい表現をしてしまいましたが…

要するに?

【元始仏教】の〔開祖〕とされておられます?

¿業靈知ッターノダ?(ゴー…
お釈迦様!!)という

〘仏様?〙ご“ジシン„は?

〔この世
(現世)を“生きていく上„〕での

“不要な苦しみ„などを取り除く教えを

〔この世に生きる全ての人々〕に、

説こうとされたのだと思われます。

また、【その他の宗教】

例えば【元始キリスト教】の〔開祖〕と

¿
🪨割れて?(謂われて!)おられます?

〘¿石切リギリス
🦗?(イエ…それコオロギ…)様〙も、

〔この世に生きる全ての人々〕を

“無用な苦しみ„から救済しようと

努められたので¿
🐜?(あり…怒られたいのか)?

“難しい理屈„や“複雑な教義„などを説いて、

[わかる人だけわかれば良い]などといった?

【宗教の垣根】のようなものを築くつもりなど、

“さらさら„なかったのではないでしょうか?

( 筆者も“何方か„を怒らせる意図はさらさら🙇‍♀️ )

ましてや、

〔この世の中は〕“苦しみの続く世界„だと教え、

〔この世の中自体〕を

“否定„するかのような考え方や?

“実際に„〔この世〕での[持ち物や資産]などを

全て捨てさせ、

さらには、〔この世を生きていく上〕では、

大切に扱っていかなければならない

〔肉体〕を酷使するような“苦行„を進めたり、

その〔肉体〕をも捨て去ることで、

〔カルマ〕からの〘
解脱〙に臨むような、

“破滅的な教え„は?

説いておられないと思われます。

( と…そんな風に思う方は今はおられませんよね?)

そして、詳しくは存じ上げておりませんが、

【元始キリスト教】などが

取り込まれた
(取り込んだ?)とされております?

《グノーシス主義》

人の褌を使い“マワシ„なんっ…痛ッ)

などの思想も、〔この世の中〕や〔肉体〕を

“否定的„に捉えるような考え方が、

“一部には„存在しているようでございますので?

〖ひふみ神示】に記載されている

これらの表現とも、

ひふみ神示 第一巻 上つ巻 
(昭和19年6月10日 - 7月9日) (全42帖)
第十四帖 (一四)
この神示(ふで)よく読みて呉れよ、読めば読むほど何もかも分りて来るぞ、心とは神民の申す心でないぞ、身魂とは神民の申す身魂でないぞ、身たまとは身と魂と一つになってゐるもの云ふぞ、神の神民身と魂のわけ隔てないぞ、身は魂、魂は身ぞ、外国は身ばかりの所あり魂ばかりの所あり、神は身魂の別ないぞ、この事分りたら神の仕組みがぼつぼつ分るぞ、身魂の洗濯とは心の洗濯とは、魂ばかりの洗濯でないぞ、よく気をつけて呉れ、神の申すことちがはんぞよ。六月の二十二日、ひつくのか三。

出典: ひふみ神示 全文 (スマホ対応) サイト様 より

(※太字は筆者による強調)

異なる考え方のようにも?思えます。

そのため、

〖ひふみ神示】
(を降ろされた御神靈團?)

【元始仏教】や【元始キリスト教】

“そのもの„を否定している訳ではなく。

長い歴史の中で〔この世を生きてきた人々〕が、

教義の“曲解„や

自分達の都合に合わせた“理屈„などにより、

本來の主旨を歪め、そこから生じてしまったであろう

人々の“誤解や偏見„などによって?

不本意な【宗教対立】などを起こさせているという、

何ともやるせない〔現実〕から?

【それぞれの宗教】の〔開祖〕とされておられます

〘神様〙ご“ジシン„をも、

〖救済しようとしている〗のかも?知れません。

ひふみ神示 第十五巻 一八(イハ)の巻 
(昭和21年旧 1月15日(新 2月16日)(全11帖)
第一帖 (三六六)
一八(いわ)の巻 書き知らすぞ。一八は弥栄。☉は・と○、☉、(※1)が神ざぞ。(※2)が神ざと申してあろう。悪の守護となれば、悪よく見えるのざぞ。人民 悪いこと好きでするのでないぞ、知らず知らずに致してゐるのであるぞ。神にも見(み)のあやまり、聞きのあやまりあるのざぞ。元の神には無いなれど、下々の神にはあるのざぞ。それで見なほし、聞きなほしと申してあるのざぞ。元の神には見直し聞きなほしはないのざぞ、スサナルの大神様 鼻の神様 かぎ直しないぞ、かぎのあやまりはないのざぞ。人民でも、かぎの間違ひないのざぞ。鼻のあやまりないのざぞ。スサナルの大神様この世の大神様ぞと申してあらうがな。間違ひの神々様、この世の罪けがれを、この神様にきせて、無理やりに北に押込めなされたのざぞ。それでこの地の上を極悪神がわれの好き候(そうろう)に持ちあらしたのざ。それで人皇の世と曇りけがして、つくりかへ、仏の世となりて、さらにまぜこぜにしてしまふて、わからんことになりて、キリストの世にいたして、さらにさらにわからぬことにいたしてしもふて、悪の仕組通りにいたしてゐるのぢゃぞ、わかりたか。釈迦もキリストも立派な神で御座るなれど、今の仏教やキリスト教は偽の仏教やキリスト教ざぞ。同じ神二つあると申してあらうがな。・なくなってゐるのざぞ、・ない(※2)ざぞ、(※1)でないと、まことできんのざぞ、わかりたか。なきもの悪ざぞ、・は霊ぞ、火ぞ、一(はじめ)ざぞ。くらがりの世となってゐるのも、・ないからざぞ。この道理わかるであらうがな。旧一月十五日、かのととりの日、一二☉。

ひふみ神示 第二十三巻 |三の巻(ウミの巻) 
(昭和22年8月13日 - 8月23日) (全19帖)
第三帖
今迄は神様も別れ別れで勝手にしてゐたのであるから、神様の申された事にも間違ひとなることあったのぢゃ、今でも神様はウソを申されんのであるが、和合なく離れ離れであったから、自分の目で届くグルリは、自分の力の中では誠であっても、広い世界へ出すと間違ったことになってゐたのぢゃ、神のお示しが違ったと申して其の神様を悪く申すでないぞ、今の上に立つ人も同様ざぞ、心得なされよ。今度は愈々一致和合して、大神様の仕組結構が相判り来て、大日月の神となりなされて現はれなさるのぢゃ。判りたか、雨結構、風結構、岩結構、荒結構、地震結構。八月十四日、ひつくのかミ。

ひふみ神示 第八巻 磐戸(一八十)の巻 
(※3)(昭和19年12月30日 - 昭和19年旧 11月30日(新 昭和20年1月13日)(全21帖)
第十三帖 (二四九)
コトちがふから、精神ちがふから、ちがふことになるのざぞ、コト正しくすれば、正しきこととなるのざぞ。日本の国は元の神の血筋のまじりけのないミタマで、末代 世治めるのざ。何事も末代のことであるから、末代動かん様に定めるのざから、大望であるぞ。上の臣民この儘で何とか彼んとかいける様に思ふてゐるが、其の心われよしざぞ。今度は手合して拝む許りでは駄目ざと申してあろが、今度は規則きまりたら、昔より六ヶ敷くなるのざぞ、まけられんことになるのざぞ、神魂(カミタマシ)の臣民でないと神の国には住めんことになるのざぞ。この世治めるのは地の先祖の生神の光出さねば、この世治まらんのざぞ、今度はトコトン掃除せねば、少しでもまぢり気(け)ありたら、先になりて また大きな間違ひとなるから、洗濯々々とくどう申してゐるのざ。神は一時は菩薩とも現はれてゐたのざが、もう菩薩では治まらんから、愈々生神の性来現はしてバタバタにらちつけるのざぞ、今の学ある者 大き取り違ひいたしてゐるぞ。大国常立尊大神と現はれて、一時は天もかまひ、地の世界は申すに及ばず、天へも昇り降りして、☉(モト)の☉(ニホン)の☉(カミ)の光りクッキリ現はさなならんと仰せあるぞ、早う洗濯せんと間に合はんぞ。この道の役員、吾は苦労して人助けるのざぞ、その心でないと我出して吾のこと思ふてゐるとグレンざぞ。仏もキリストも何も彼もスカリと救はねばならんのざ、殺して救ふのと、生かして御用に使ふのとあるぞ、今度はハッキリ区別するのざぞ、昔からの因縁ざぞ。この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら、肚の底から改心してマコトの御用結構につとめあげてくれよ。逃げ道つくってはならんぞ、二つ三つ道つくってはならんぞ。ますぐに神の道に進めよ。神の道は一筋ざと申してあろが。何なりとそれぞれの行せねばマコトのことは出来んのざぞ、世界の片八四浜辺からいよいよが始まると知らしてあること近うなりたぞ、くどい様なれどさっぱりと洗濯してくれよ、神の国は神のやり方でないと治まらんから今までの法度(はっと)からコトから、やりかたかえて、今迄はやりかた違ってゐたから、神のお道通りに致しますと心からお詫びせねば、する迄 苦しむのざぞ、この苦しみは筆にも口にもない様なことに、臣民の心次第でなるのざから、くどう申してゐるのざぞ、何も彼も神にささげよ、てんし様にささげよと申してあろがな、それが神国の民の心得ぞ、否(いや)でも応(おう)でもそうなって来るのざぞ。神国の政治経済は一つざと申してあろうがな、今の臣民に判る様に申すならば、臣民働いてとれたものは、何でも神様にささげるのざ、神の御社は幸でうづもれるのざぞ、御光輝くのざぞ、光のまちとなるのざぞ。神からわけて下さるのざぞ、其の人の働きによってそれぞれに恵みのしるし下さるのざぞ、それがお宝ぞ、お宝 徳相当に集まるのざぞ、キンはいらんと申してあろがな、元の世になる迄に、さうした事になって それからマコトの神の世になるのざ。神の世はマツリあるだけぞ、それ迄にお宝下さるのざぞ、お宝とは今のお札(さつ)の様なものざぞ。判る様に申すなら、神の御社と臣民のお役所と市場と合した様なものが、一時は出来るのざぞ、嬉し嬉しとなるのざぞ、マコトのマツリの一(ハジメ)ざぞ。このことよく肚に入れて一二三(ひふみ)として説いて、早う上の守護人殿にも、下の守護人殿にも知らして、安心して、勇んで暮す様にしてやりて下されよ。それも臣民の心次第、素直な人、早う嬉しくなりて、心勇むぞ、さびしくなりたら たづねて御座れと申してあろがな。一月十三日、☉の一二か三。

出典: ひふみ神示 全文 (スマホ対応) サイト様 より

(※太字は筆者による強調)
((※1)(※2)表記不能記号)
((※3)筆者の所持する著書では(自 昭和十九年 十二月三十日 至旧昭和十九年旧十一月三十日))

⬛️【〘仏魔〕の〘岩戸〕?】

( あ💧)

そういえば前回は、続きを【仏魔󠄁編】などと、

ちょっと[鬼○の刃]っぽい?テーマで、

“記事„を執筆させて頂こうとしておりました…。

ンガ
👹

なんだかんだの“突然の訃報„に、

すったもんだで“動揺„し、

某ゲームに絡めて[死別]をテーマに

執筆し始めてしまったことを

ただただ
(しまった…)と、後悔するだけの

[自滅のヤバイ]“氣もぢ„になってしまいました
😓

ただ…

人様の〘死〙に対する礼儀や礼節は、

“当然„持っていなければいけない思われますが、

やはり、〘先立たれた方々〙を

(お墓や仏壇の中で眠っている)だとか?

何処か知らない世界へと生まれ変わり、

(個人的な“カルマ„解消に勤んでいる)だとか?

どこか“
余所余所しく„思ってしまうよりも、

〘先立たれた方々〙は

この世を生きる人々の(こころ)?

もしくは、私達の(命
(みこと/いのち))そのものを

“新たな肉体„として?

〔今も共に生き続けている)と思う方が、

(“亻
(人)„と“共„)にある

という“カンジ„でも表されておりますように?

本当の意味での(ご“供„養)となり、

また、大切な方々を亡くされたご遺族の

(心の
安寧)にも繋がるのではないでしょうか?

そのため、〖ひふみ神示】に記載されている

【〘仏魔〕の〘岩戸〕?】とは、

仏教伝來?と共に、

何らかの〔知識〕や〔価値観〕というカタチにて?

今の世をを生きる日本人のみな様も

何処かで抱えてしまっていると思われます?

〘先立たれた方々〙と〔今を生きる人々〕を

【隔て閉ざしている】

【“想念そのもの„】なのかも…

とさせていただきますよりも、

〘あらためて〙このように考えて頂けますと、

筆者の苦労も報われる…かも?知れません。

ひふみ神示 第十五巻 一八(イハ)の巻 
(昭和21年旧 1月15日(新 2月16日)(全11帖)
第五帖 (三七〇)
人民 眼の先見えんから疑ふのも無理ないなれど、ミタマ磨けばよく判るのぢゃ、ついて御座れ、手引張ってやるぞ。誠の道行くだけではまだ足らんぞ。心に誠一杯につめて空っぽにして進みてくれよ、このことわからんと神の仕組おくれると申してあろうがな、早くなったところもあるなれど、おくれがちぢゃぞ。苦労、苦労と申しても、悪い苦労 気の毒ざぞ、よき苦労 花咲くぞ。花咲いて実結ぶのざぞ。人民 苦しみさえすればよい様に早合点してゐるなれど、それは大間違ひざぞ。神の道 無理ないと、くどう申してあらうがな。此の道理よく噛み分けて下されよ。神の国は元のキの国、外国とは、幽界とは生れが違ふのぢゃ。神の国であるのに人民 近慾なから、渡りて来られんものが渡り来て、ワヤにいたしてしまふてゐるのに、まだ近慾ざから近慾ばかり申してゐるから、あまりわからねば、わかる様にいたすぞ。眼の玉 飛び出すぞ。近くは仏魔渡り来て、わからんことにされてゐるであらうがな。五度の岩戸開き一度にせなならんと申してあらうが、生れ赤児の心で神示読めと申してあらうがな。二月十六日、ひつ九かミ。

出典: ひふみ神示 全文 (スマホ対応) サイト様 より

(※太字は筆者による強調)

おっトット…。

またしてもテキ“トー„なことを

長々と書き綴ってしまいましたが…

〘五度の岩戸開き〕などにつきましても

少々思うところを執筆させて頂きたく存じますので、

筆者の〘言答
(イワト)〕の方も

まだ“開けっぱなし„とさせて頂きまして、

次回【どうなるかわかりま編】で
😅

¿レッツ“快心„?(お会いしましょう…)。

五十黙示録 第一巻 扶桑之巻
(昭和36年5月5日) (全15帖)
第十四帖
青海原 青垣山の内(宇宙)に 御子生る。

神の御座(みくら)のまわりには十の宝座があるぞ、十の宝座は五十と五十、百の光となって現れるのであるぞ、大摩邇は百宝を以って成就すると知らせてあろうがな、五十種の光、五十種の色と申してあろうがな、光の中に百億の化仏(けぶつ)ぢゃと申してあろう、百が千となり万となり億となるのであるぞ、今迄は四の活物(かつぶつ)と知らせてありたが、岩戸がひらけて、五の活物となったのであるぞ、五が天の光であるぞ、白、青、黄、赤、黒、の色であるぞ。 

出典:ひふみ神示 全文 (スマホ対応) サイト様 より

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?