20211217

 何もしたくない。何もしたくない感情を言語化すべく文章を書く。でも何もしたくないので何も浮かばないし、自分の文章が酷く稚拙で下らなく感じて、誰に見られているわけでもない場所に公開することすら憚られて消してしまうこともある。ここまで書いて何となく興が乗ってきたので続ける。

 ポッドキャスト超相対性理論の内容を思い出しながら自分の言葉で考える。人間は数字の奴隷から脱却することができるのか。おっしゃる通り、自分自身も数字の奴隷であると感じる。転職を決めた一番の理由は年収の低さであり、それを上げたいと強く思っている。その基準を下回ると幸福度が極端に下がるとされる貧困線と呼ばれるようなラインは現職でも満たすことができていたはずだが、それでも年収を低いと感じて転職に踏み切った。数字に囚われていると思う。友人知人よりも年収が低いのだろうなあと考えると、悔しいような、羨ましいような、自身の価値が低いと感じてしまうような、ネガティブな感情が引き起こされる。そこに価値を置くのは不健康な状態であると思いつつも、現状逃れられそうにない。ある一定の水準を超えると金銭は幸福度の向上に寄与しないというが、それは日本円でいくらなのだろうか。自分はそこに到達して、金銭とは違う目的を第一に働くことができるだろうか。

 数字の奴隷から脱却できるのか。自身で考えると、年収の高低を強く意識しなくなる時がくるだろうか。生活ができて、そこそこのペースで貯金もできて、ふと思いついた娯楽を金銭的な理由で諦めなくてもいいような状況になれば、その年収で一旦満足できるだろうか。生活水準が向上すると結局その上を夢見続けてしまうのだろうか。

 その他、縛られていると感じる数字は何だろう、年収以外に思いつかない。。。年齢。30歳だから新しい分野の職に挑戦するには最後のタイミングだろう、など、いくつになっても新しいことに取り組めばいいはずなのに、そう思い込んでいる節は確かにあった。数字、数字、数字。

 嫌になってきた。何も出てこなくなった。

 なぜ年収に拘るのかその理由を考える。より良い生活のため。自分にとってより良い生活とは何か。数万円の物品をそこまで熟慮せずに買えるような生活か。例えば電子ドラム。近々決心することができたら買おうと思っているが、これをポンと躊躇なく決断できてしまうような経済状況のことをいうのか。しかし、得た物品から得ることができる満足感は、それを手に入れる経緯も影響する可能性があり、悩みに悩んでようやく購入した電子ドラムの方が自身にとって大事な物になるのかもしれない。物品を得るために金銭を多く得て、次々と欲しい物を得ていく生活は、人生の満足度に大きく寄与しないのかもしれない。

 年収に拘る理由は、金銭を多く得て貯蓄を増やし安心したいから。子どものため、自身の老後のため。ではいくら貯めることができれば自分は安心できるのか。そんなボーダーを考えたことはない。漠然とたくさんあればいいなと思う。その程度の動機で貯蓄を進めたところで終わりはないのではないか。そもそも明日死んだら何にもならないのでは?漠然とした不安から自身が低年収であると思い込んでいたのではないか。

 結局自分の考え、軸が何も定まっていないから迷い続ける。その軸は定めた途端に現実と乖離を始め、常に見直しを迫られる。そんな思考的体力はなく、漠然とした不安を漠然としたまま掘り起こそうともせず、それが身にまとわりついて足取りが重くなる。よく考えたいとは思うが、思索にも体力と訓練が必要なのだと感じた。

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