20211216

 自問自答。なぜ今とても憂鬱なのか。

 現職場を離れることに強い寂しさを感じる。あと少しで離職。なぜ寂しいと感じるのか。多くの人と良い関わりができていたから。人に恵まれていたから。その人たちを含んだ生活が失われるから。転じて、次の職場では人に恵まれない可能性があるから。良好な人間関係という得難い福利厚生を捨ててしまうのではないかと不安があるから。

 次の職場の人間関係が悪いものであると考える根拠はない。良いものになる可能性も大いにある。そして問題はそこにあるのではなく、職務内容を考えると、孤立に悩まされる可能性の方が高い。現職では周りと協力して業務をこなしていたが、次は独り。同じ立場で相談できそうな同僚先輩と顔を合わす機会は月に数回しかなさそう。自身に大きな責任が伴う。

 そしてまた、その責任を悪い方に考える根拠もない。責任があり、自身で采配できる範囲が広く、やりがいに通ずる。そう考えればいいだけの話で、未来にわくわくすればいいのに、なぜそうならない。なぜ悪い想像ばかりを働かせるのか。

 あなたの認知が歪んでいるから。先のことなどわからない。良いことも悪いことも生じる可能性は等しい。良いことが起こる可能性を上げられるような努力をすればいい。

 だが、現状、次の職に役立ちそうな勉強をする気が起きない。なぜ。ただの怠惰だろうか。飛び込んでみてから得る事柄に感度を上げられるように、メンタルを整えておく方が結果効率がいいのではないか。今したいこと。具体的に役に立つようなものではない、気ままな読書をすること。

 メンタルが悪化している理由のひとつに体調があるのではないか。慢性的に寝不足。何かしたい、何かしなければと思うだけで過ぎ行く無為な時間を過ごして睡眠を削るくらいなら、潔く寝てしまって体調を整えて、結果メンタルも向上して日中の活動の質が上がる。そうしたい。

 眠い。我々は人生というパーティーに招かれてはいるが、それを楽しむためのリテラシーを得られていない。近代以降、過去と比べて自由を与えられてはいるが、それを謳歌する手段や方法・思想について熟考することなく時代は進み、悩む人が多い。そうなのだろうか。腑に落ちる話ではあるが、であればそのリテラシーとはどういうものなのか。リベラルアーツ、人文学。自分なりの基準や価値観を固め、生き方を自分で選択する。枠がないと迷ってしまう、自由だけを与えられても持て余している。

 超相対性理論というポッドキャストより。最近よく聴いている。人間はこんなに知識を蓄えて、抽象概念を駆使して楽しく対話ができるのだと感心する。賢いなあと思い、自分はこうはなれないのかなと寂しくなる。インプットの量が半端ではないのだろうし、時間の使い方が自分とはまったく異なるのだろう。何かしないとなあと思うだけで何もしないような時間はきっと彼らにはなく、常に何かを吸収・発信しているのだろう。想像でしかないが。自分はそうはなれないのだろうか。なりたいと本当に思っているのだろうか。

 文章であったり、楽器であったり、何かしらの自己表現がしたい。充足感を得たい。仕事においてそれが成せれば、生活の維持と一石二鳥で大変良いが、そこを結び付けてもいい性質と、分けた方が上手くいく状況と、色々とあるのだろう。自分はどんな性質で、どんな状況にあるのか。

 とりあえず眠い。放り込まれたパーティー会場で、腐って隅っこで一人でチビチビ酒を飲むだけか、色んな人と話して刺激し合って充実を感じるか。パーティー会場ってあまり好きではないのだけど。そうはいっても退室はできない。時間がくれば強制的に退場しなければならないが、自分の意思で途中退室する勇気はない。と、思ったが、別のパーティ―会場を求めて移動することは考えに含むべきではないか。どうしたって馴染めない会場だってあるでしょう。どれだけリテラシーを磨こうとも愛着をもてない環境もあるでしょう。べき論から離れ、自由に考える練習。終わりに向かって進んでいることは揺るぎないが、せっかくなら楽しみたい。楽しむためには何をすればいいのか。何を考えればいいのか。

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