おにぎり の 「なかみ」

『日本語学習は本当に必要か』 多様な現場の葛藤とことばの教育

村田晶子 神吉宇一 編著  明石書店 2024年2月15日 初版第一刷発行

 題名に驚かされました。
本当に必要か、と問われれば、必要だ、と自信を持っては言えないもう一人の自分がいます。
(大学であれ、日本語学校であれ、地域日本語教室であれ、そこでの活動が、日本語を習得しようとしている人たちにとって、有効有益なものになっているのかをこの本は問いかけています。地域日本語教室の活動の中で疑問に思うことなど少なくはありません。)

 いろいろ書きたいこと、紹介したいことはありますが、今回は地域日本語教室での報告についてです。

以下に引用します。

日本語支援に関する疑問・葛藤 (というタイトルです)

地域日本語教室等に活動されている
教員免状、日本語教育修士号を持つAさんのはなし

 「おにぎりの「中身」と書く時に「中味」と書いた子がいて、むしろ、このほうが正解じゃないかと感動したおぼえがあります。漢字には意味があると日頃教えていて、「中味」の時はよくぞ考えたってうれしくなって。逆になぜ「中味」じゃないんだろうって考えてしまいました。こういう表現あるよね、言いたいことってそれだよねっていう。
誤用の受け止め方、その時のその人の気持ちを受けとめることがすごく重要なんだと思います。」

 
 誤用の受け止め方については書かれている通りです。大事なことです。常にできるよう、するよう、注意、心がけていなければならないことだと思っています。
(自分が、できていたかどうか、心もとないですが)

 この部分を読んだ時、そうです、その通りです。同感です、心のなかで叫びはしませんが大きく頷く自分がいました。
 
 しかし、何かが引っかかるような、落ち着かない気になりました。数回読み直しました。確かに「なかみ」は「中身」と書くのですが。「中味」は誤用だったか・・・

 国語大辞典、新明解、三省堂その他、引いてみまして。いずれも「なかみ」で見出し語があり表記は「中身」「中味」の両方が載せられています。

中に入れてあるもの、といった意味で、「味」は関係ありません。

国語大辞典に載せられている文章を引用します。

・吾輩は猫である(1905〜06)〈夏目漱石〉
「砕けたあとから舞い下りて中味を頂戴すれば訳はない」

・二老人(1908)〈国木田独歩〉
「今度はマッチを出したが箱が半分壊れて中身(ナカミ)は僅かに五六本しか無い」

・我等の一団と彼(1912)〈石川啄木〉
「顔ばかり偉さうでも、中味のない奴ぢゃ」

・浅草紅団(1929〜30)〈川端康成〉
「いんちきの中身(ナカミ)を、舌三寸としぐさよろしく」

・ブラリひょうたん(1950)〈高田保〉
「おもわずその中身を読んで、ついそれに釣りこまれ」

 以上のことから、断定はできませんが、中味が中身より多く使われていて、中身が使われだしたときに(ナカミ)と読みがつけられ、中身が多く使われるようになり、(ナカミ)がつけられなくなったのでは、と想像できるのではないでしょうか。

 「なかみ」の漢字表記について言えば「中身」でも{中味」でもいいのですが、「味」という意味を込めるとすれば、誤用でしょう。しかし、なんとなく、認めたいような気もしています。
 
 漢字の用いられ方を調べてゆけば、なにか面白いことに出会うかも、と勝手な想像に耽って気を良くしているところです。

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