小学校の同級生に韓国人の友達がいた

その友達は、名前が日本人と違うから「外国人」なんだな程度の認識はしていた。日本語がペラペラだしユーモアがあってちょっと変わった奴だけど、仲が良かった。
放課後に皆でそいつのうちに遊びに行って、お母さんが韓国料理振る舞ってくれたことがあった。その思い出を授業で作文に書いたら先生がでっかい花丸をくれた。そのときの先生の心の内なんて想像がつかなかった。チヂミが旨かったみたいなことを書いただけだったから。

そいつとはモーニング娘。の辻ファン被りしてたから喧嘩もした。自分がもってる一番かわいい自信のある辻ちゃんのカードを出すバトル。
ライバルを蹴落としたくて、小5にもなった男子が辻ちゃん好きとか言うのやめろとかクソ理論言ってバトルめちゃくちゃにしてごめん。

思い出はそのへんで、中学以降は関わりが無くなってしまった。どこにでもある小学生の思い出だ。

今思う。そいつが日本語が喋れなかったら?無口なほうだったら?友達になっていなかったかもしれない。

知識は怖くもある。行動を狭めてしまうから。下手な知識を持ってしまった今出会っていたら、友達になってただろうか?

向こうもこちらも互いの文化を知らなかったら、何を取っ掛かりに理解を深めていけばいいのだろう。ご近所に外国人が住んでるとか、そういう存在として認知するだけに留まるだろう。

人は、自分と類似性があり同じ集団に所属した顔を会わせる頻度が高い人と仲良くなる傾向にあるらしい。類似性がある、というのは趣味嗜好に共通点があるということだ。また、所属が同じでよく顔を会わせるという環境は地域の繋がりが弱くなっている今、大人には職場やサークルの場などが挙げられるだろう。

この人とは合う・合わないから関わりあいをもつ、もたないという判断は基本一瞬で行われる。自分を理解してくれる他者なのか、拒絶しない他者なのかを判断材料にしているから、仲良くなれる人は「お互いを受容しあえる人間だ」と認識したということになる。

改めてこのnoteを書いたのは、人との人間関係の起こりについて考えたかったからだ。言葉が通じないということは、拒絶可能性を高める。そして○○人というラベリングはときにポジティブに、ネガティブに作用する。それは日本人として受けてきた教育であったりメディアの刺激から来る。

まったく相手とコミュニケーションをはかれないなら人間関係は起こらないだろう。この人は自分から見て宇宙人のように見えるというような経験はないだろうか。自分の常識がまったく通じない相手のことだ。人種の違いがなくても、そういう人を奇人変人天才とラベリングすることで区別をつけている。これは一種の自己防衛でもある。

差別をしない、なくそうという言い方はマジョリティがマイノリティを受け入れよと聞こえるように思う。私には、この漠然とした言い方では反発が起こることは必然のように見える。他人との違いを探す習性が人間にはある。自分を守るために存在する。だからこそ、「自分と違うところを洗い出す作業をして、それを武器に相手を攻撃しないこと」を差別しないことと考えることにした。区別したうえで他人の土俵で暴れるなということだ。人の権利を守る活動に反発が起こるのは、その活動によって自分の権利が阻害される危機感を感じるからだ。例を挙げると、「女性の役職者を増やしましょう→男性の役職が減るのでは?」「火曜と木曜がレディースデイの映画館。メンズデイは無い。→新たに水曜メンズデイを設け、木曜のレディースデイを改めて全員がサービスを受けられる曜日とした。」これで平等だと感じる人もいれば、特別を奪われたように感じる人もいる。そのような動揺が攻撃を生むのであれば、権利を主張するだけではなく、対にいる人の権利を阻害する可能性についても明確にした方がより良い。理解を促すというのは、本来そういうものなのではないか。

人と人は相容れない部分を持ち合わせながら絶妙に人間関係をつくっていく利己的な、シビアなものである。

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