ココロウチミニ

 悲しみとは遥か無縁であるようで、ここまでの人生振り返ろうかと。そこまで深い海には見えないものが、どこまで続いているかわからない。ということが分かると、私は悲しむと感じる。
 昔のことなど何も覚えてはいない、新しいことを知りたいったことでもないが。今を生きることで一杯なのかも知れないし、私は過去を何も気にしていないらしい。日々過ごすだけになると、そんな日が続けばそこから目標はないと明日が不安になる。そんな日々は思い出すことなく生きていると。

 楽しむと同じく欲があればいいが、鬱は欲によって引き起こることが、私の行動をいつも抑制しているとすれば、自由ではない。食欲も性欲も睡眠欲も、少ないのかはたまた理性は強いことがよいのか。それらは先行して働かず人間らしくは生きていない。常に求めていることは感情のままに生きることが、それは発散が違う方向にいく。感情の変化に気づいたときにも、その揺れ流し切るのは辛く、何か変換することを望む私がいる。絵を描くことはそうであり、過去の自分はそこに残されている。その絵と向き合えたとしても過去の自分は絵の中にのみ居り、考え想像することは容易くも、それが本物かは未だわからず、会うたびにそれは変わる。

 働くことは意味もなく、ただ回り続ける地球に対して逆らいもしない。しかし、周りと同じような才はなく、それらが普通と言うのだとしたら私は社会に参加するためにも少しばかり努力する必要がある。それが私だけがしていない努力と言われれば、それはその通りかも知れない。人と同じくなるためには、そこに平等はなくそれぞれの努力の量は測るべきではない。そこに努力という言葉を置くことは、全く正しくないのかも知れないが、しかし、私は努力で人と同じくなれるようなくらいの平凡さである。

 生きた心地がしないような日がいつもある。寝れないような日も何度もある。心は内側というよりも後ろにあるような気がして、先行することはなくついてくる。思考は常にあるが、どれもとても近くて遠いような、それであって何も意味をなさない思考が常にある。寝るときには、起きることを考えるが私を眠りへは誘うことはない。人には優しく生きたいが、人には優しくされたいが、人が好きなのにも関わらず、人に関心がないような気がする。全てを知りたいが、全ては自分でもわからない。という事は分かっているのに、全てを知った時に私はあなたを忘れるような気がする。

 死について考えていた時期がある。それがいつかはわからない、最近は死に興味はなくて、どちらかといえば生きることに執着している。今死んだらとても後悔するだろう。やり残した事はないが、やりたい事はたくさんある。やりたいことというかやるべきとも言えるきっとやるだろうと。過去はあまり思い出せないが、未来も知らないけど、きっと未来しか生きないだろうから未来はあると思う。過去がなかったと知っても悲しい事はない、今は過去かも知れない。死ぬのは未来なのかも知れないと思うと、生きたいと思える。

 明日は働くので寝たい。

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