映画レヴュー:アニアーラに救いはあるか?

今夜はどうしても滅入った気分になりたいだって? だったらうってつけの映画があるぜ。

【あらすじ】
 スウェーデンのノーベル文学賞受賞作家ハリー・マーティンソンの代表作「アニアーラ」を実写映画化したスウェーデン製SF大作。放射性物質で汚染された地球から火星へ移住するため、8000人の乗客を乗せて旅立った巨大宇宙船アニアーラ号。しかし事故によって燃料を失い、火星への軌道を外れてさまようことになってしまう。修復不能なまま歳月だけが過ぎていく中、希望を失い狂気へ落ちそうになった乗客たちは、人間の感情を治癒・制御するAI「MIMA(ミーマ)」に依存するようになるが、あまりに多くの感情を受け続けたMIMAは自らの意思で機能を停止・爆発してしまう。漂流から5年が経ったある日、アニアーラ号へ向かう救助船と思しき存在が現れる。だが、それは未知の物質で作られた巨大な槍形の物体だった。

(映画.com)

※以下、ネタバレあり

救いのない鬱映画?

 結論からいうとみんな死ぬ。そこに救いはない。追い詰められた人たちの不安と困惑とぬか喜びと失意の果てに、598万1407年という途方のない歳月の果てに、乗客はことごとく死に絶え、最期には乾いた土埃のようなものしか残らない。他の宇宙漂流もの、たとえば「ゼロ・グラビティ」(2013)、「オデッセイ」(2015)や「パッセンジャー」(2016)などは主人公たちが困難に立ち向かうプロットで、未来に向けた希望のもてる作品になっているが、「アニアーラ」に関しては絶望しかない。鑑賞するものは一切の望みを捨てよ。そこには宇宙船アニアーラ号の漂流から衰亡までが淡々と描かれているだけだ。映画の冒頭はすこし洒落ていて、まず荒ぶ地上のシーンを背景にエンディングみたいなクレジットが流れる。そして暗い表情をした人々が、地球を捨てて火星に移住するため、軌道上にある宇宙船へと移動していく。つまりこの映画は終わりからはじまる。地球の破滅という危機を人類がいったん乗り越えた後の物語なのだ。このユーモラスで憂うつな演出がぼくは嫌いじゃない。ハッピーエンドはあくまで恣意的に時系列を切り取るからそうなるのであって、エンディングの後にも日常が続くとすれば、それがハッピーかどうかはわからない。「アニアーラ」は真のエンディング(死滅)までを徹底的にアンハッピーに描いてくれるのでぜひ安心して鑑賞してほしい。
 物語はミーマローベ(操縦士)の女性を中心にして進むものの、基本的には登場人物を追うのでなく、アニアーラという場ないし歴史を俯瞰する作品になっている。だから静謐で容赦がない。ロビンソン・クルーソーはたった1人で漂流したが、アニアーラは8000人がいっぺんに漂流する。一つの町村くらい人間が集まって希望ももてず限界状況に追い詰められていくとなれば色々なことが起こる訳で、この陰鬱な雰囲気のなまなましさは作品の見どころの一つだ。漱石の『行人』に「死ぬか、気が違うか、そうでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」という悲痛なセリフがあるが、自死、発狂、カルト染みた宗教と、アニアーラ号に搭乗した人たちもおよそこの途を辿ることになる。とはいえ、それも淡々と描写されるだけで、起伏や派手な展開はない。エンタメ要素もなく鑑賞によって得られるカタルシスも全くない。ここが好みの分かれるところで、前述したような手に汗握る宇宙漂流のSF映画を期待する人たちは退屈するに違いない。それでもSF(スペキュレイティブ・フィクション)としては低予算ながらよく出来た作品なのではないかとぼくは思う。
「人間とは何か」というような哲学的・宗教的な思索に強く誘う内容であるが、「アニアーラ」は基本的にニヒリズムの立場で一貫している。劇中の「私たちはグラスに浮いているちっぽけな気泡に過ぎない。前に進もうが、高速で動けるようになろうが、神が手にするグラスの中では些細なことに過ぎない。静止しているのと同じだ」「奇跡と偶然はそもそも同じ意味のもの。希望も絶望もない。人間は生まれてから死ぬだけだ」というセリフによく示されているような虚無。これが通底しているので、人によってはうんざりし、眠気に耐えるだけの苦痛な映画となるだろう。決して楽しい作品ではないし、気軽に人に勧められる内容ではない。別に高尚とも思わないし、深淵なテーマとも思わない。が、棘のように刺さる作品ではある。見どころはたくさんある。そして、なにより滅入った気分になりたいときにはうってつけだ。
 MIMA(手塚治「火の鳥」に登場するムーピーみたいな装置)の自殺や、乱交パーティーをするカルト、愛する女性イザベル(MRは映画だと女性なのでレズビアン・カップルになる)とその子どもの心中など、取り上げたい鬱なエピソードは幾つかあるが、1つだけ槍について。物語の中盤で、宇宙の彼方から謎の槍が飛んでくる。これを発見したアニアーラ号の乗員たちは、当初、自分たちのために地球人が送ってよこした救援の艇ないし物資(燃料)だと喜ぶのだが、拿捕してみるとこれが実際には全くアニアーラの遭難とは無関係の金属のかたまりなのだ。このエピソードを取り上げたかったのは、ネット上で「アニアーラ」の感想を眺めていたら好意的でないレヴューに「あの槍のくだりはいるか?」という難癖をみかけたから。確かに槍は物語を劇的に動かすということもない。それが飛んできたからといって助かることもない。「意味のないものを登場させるな!」とそのレヴュアーは呆れていた。チェーホフの銃よろしく意味のないものを物語にいたずらに出してはいけないという訳だ。が、ぼくからするとそれはとても浅はかで、この槍のくだりこそ映画「アニアーラ」が主題とする虚無や偶然をよく象徴し、冷徹で、素晴らしくうんざりさせてくれるエピソードだと思う。希望として宇宙の彼方からやってくるものが、蓋を開けてみれば自分たちに向けられたものでもなんでもない、用途も何もわからない。全く無用のその槍を、徒労になるとわかりながら、それでも何か意味があるのではないかと信じようと必死になる、その人心や集団の描写はとてもリアルなのではないか。きっとぼくの人生にも、あなたの人生にも、いつか彼方から槍が飛んでくる。そして自覚的にせよ無自覚的にせよ、その幻想に縋るように生きなければいけないときがくるのだろうなと思う。
 さて、長々と書いたけれど実はここまでは前口上で、本題はここから。お楽しみはこれから。映画「アニアーラ」には原作がある。1956年に出版されたハリー・マーティンソンの長編叙事詩『アニアーラ』だ。ぼくは恥ずかしながら(本当はちっとも恥ずかしいだなんて思ってないけど)マーティンソンという作家を知らなかった。彼はスウェーデンの詩人で、まさしくこの作品を評価されて1974年にノーベル文学賞を受賞したらしい。受賞の理由は「露のひとしずくを捉えて宇宙を映し出す作品群に対して」(for writings that ctatch the dewdrop and reflect the cosmos)とのこと。wikipedia の情報にはなるが、グレアム・グリーン、ソール・ベロー、ウラジミール・ナボコフという迫力あるメンツを抑えて受賞したとあり凄まじい。今回、映画をきっかけに原作の『アニアーラ』を図書館で借りてきて読んでみたところこれがとても面白い。オススメ。1950年代を検索してみるとSF小説としてはハインライン『ガニメデの少年』(1950)、アシモフ『われはロボット』(1950)、クラーク『幼年期の終わり』(1953)、ブラベ『火星年代記』(1950)、PKD『マイノリティ・リポート』(1956)などが出版され、またSF映画としては『遊星よりの物体X』(1951)、『宇宙戦争』(1953)、『禁断の惑星』(1956)、『渚にて』(1959)などが公開されているらしい。素晴らしい時代だ。そして明らかにSFの嫡流というべき作風の『アニアーラ』はこれらの作品と肩を並べている。歴代の受賞者を眺めてみると、マーティンソンこそSF作品でノーベル文学賞をとった最初の作家なのではないかと思う。彼の後には、ゴールディングやサラマーゴ、最近ではカズオ・イシグロなどSFっぽい小説を書く受賞者の名があるものの、その前にはいないんじゃないか(詳しい方がいたら教えて)。そんな凄い作家を見逃していたなんて! 以下、映画レヴューの余談として原作についても語ってゆきたい。

救いのある叙事詩

 原作を読んでみると映画から受ける印象とずいぶん違う。全103章の詩からなる叙事詩で、宇宙船アニアーラ号の漂流から全滅まで、事象として眺めればストーリーは概ね同じだ。登場人物のMRが男性だったり、漂流の原因が小惑星の接近だったり(映画ではスペース・デブリのせい)、ラストで琴座に漂着するのが598万1407年ではなく1万5000年だったりと僅かに差はあるものの、アニアーラの運命自体は変わらない。MIMAは自ら崩壊し、遺された人々は宗教やセックスに溺れながら、しだいに病んで自殺したり他殺したりする。この点で、映画はそれなりに忠実に原作を辿っている。では、何が違うのか。
 映画「アニアーラ」には言葉のメタファーがない。極端に少ない。映画なんだから詩と比べて言葉のメタファーが少ないなんて当然じゃん、という向きもあるだろうが、原作を読んでみるときっとあなたもそう思うに違いない。これがマーティンソンの常の作風なのか、それとも叙事詩『アニアーラ』のために準備された詩の言語なのかわからないが、とにかくメタファーが多い。それも神話にまつわるメタファーばかり。たとえばアニアーラ号の終着地となっている琴座は、よく知られたオルフェウスの神話のメタファーとして、漂流の詩を「冥府」や「妻(エウリュディケー)の死」などと結びつけている。そんなふうに他の多くの言葉たちも、重層的に、横断的に、神話と比喩によって関係をもたされている。そして、映画ではたぶん意図的にこのメタファー群が切り捨てられている。この違いに驚いた。映画「アニアーラ」にはカルト宗教や槍など人間の信仰に関わるものは登場するものの、ストーリー全体を通してみると皮肉なくらい神とは無縁にみえるのだ。この隔絶こそが映画版に漂うニヒリズムだった。なのに、原作を読んでみると神だらけなのだ。それも古今東西の神々。ギリシャ神話だけでなく、たとえば北欧神話、古代アステカの神、エジプトの神、キリスト教の天使、またユダヤとイスラムの聖地など。もはやごちゃまぜ。神々のチャンプルー。神ではないけれど、最期はニルヴァーナも持ち出される。
 神話のメタファーをふんだんに使うことで叙事詩『アニアーラ』はどんな効果を得ているのだろう。原作を読み終えたあとで、散歩しながらそんな疑問をずっと考えていた。漂流するアニアーラ号はいわば神から完全に見放された船なのだ。その叙事を神話のメタファーによって語ること。いっけん皮肉とも読めるのだが、そこにはマーティンソンの次のような世界や言語の捉え方があるのではと思った。宇宙には神はいない。そして宇宙空間では神話のメタファーは意味をもてない。それらの言葉は無慈悲な星々の支配領域では壊れてしまう。神々は地球(『アニアーラ』ではドリスと呼ばれる)の大地に根ざしてのみ意味をもつことができる。第81章の一節は作中にありながら叙事詩『アニアーラ』自体にメタ言及するものとも解釈でき、そこには「静力学の歌を 僕は不幸な花嫁のために歌った。打ち砕かれた栄光と 修復不可能な神のことを歌った」とある。この「修復不可能な神」との関係を、神話のメタファーは逆説的に示していると思う。救いのない漂流の中で言葉として神が登場するたびスベっている感じがしたのだが、それは宇宙に大地がないからだ。
 さて、このような意図であるとして、壊れた神話のメタファーによって語られる叙事詩『アニアーラ』の結末は映画とは異なることになる。漂流と全滅の運命は変わらない。みんな死ぬ。だが、それは「修復不可能な神」との関係を修復しなおそうとする、救済ルートとなる。最終103章の結末に「ミーマの墓所を囲み、輪になって力尽き 罪なき腐葉土に還った僕たちは 星々からの厳しく刺すような痛みからも贖われた」と書かれていた。1万5000年の旅の果てに土に還ること。個体や種族のレベルでみれば死滅というバッドエンドに違いないが、詩のレベルでは言葉に神(救済はキリスト教的な概念だが、これは必ずしもキリスト教的な神ではない)との関係を取り戻そうとするような意味が賭けられていると思う(本当に?)。もしもこれを下敷きに映画を観ることが許されるなら、ラスト・シーンの意味もずいぶん変わってくる。というか、「そうなるとぜんぜん意味が違ってくるじゃん」とぼくはハッとしたのだ。真逆になるくらい。前述の通り、映画「アニアーラ」では、最後に598万1407年という途方のない歳月が流れて、人類の絶滅した船内には乾いた土しか残っていない。そのからっぽの宇宙船が琴座に至って地球によく似た水と緑の惑星の近くへ差しかかり劇終となるが、映画だけ観ればこれはもう壮大なギャグとしか思えない。けれど「罪なき腐葉土に還った僕たち」をそこに読むなら、読んでいいなら、あのエンディングは土となって土に還っていくという救いのシーンなのだ(本当に? 本当に?)
 まあ、映画だけだと絶対にそんなふうに観れないと思うんだけど。試してみて。




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