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客観的立場から見た「信仰」

友人にクリスチャンがいる。
自分は全ての宗教を「哲学」として俯瞰で見たいので特定の宗教を信仰することはないが、友人との会話を通して「信仰」について考えたことをつらつら書く。
多くの人が思っていることかもしれないが、「祈り」「信仰」は彼らの「支え」として大きく機能している。
実際に「神の奇跡」(奇蹟、の方が正しいかもしれない) が起きているか、というとそれを証明することは難しい。まさに「神のみぞ知る」というやつだ。しかし、信仰している彼らにとっては素晴らしいことが起きるとそれは「神によってもたらされた奇跡」なのだ。そして、悪いことがあれば「試練」、偶然に起きたことは「思し召し」となる。
それが全ての人にとっていい悪いという問題ではない。ただ、信仰心を持った彼らには「いいこと」なのだ。
善い行いをすれば奇跡が起き、悪い行いをすれば罰せられる。一般的な人間社会でいう「法律」のようなものだろうか。もっとも、法律の上ではいいことをしたからと言って褒められるとは限らないが。
信仰心を持つ彼らは、それに則って生活をする。悪い行いをしないように、してしまったら悔い改める(いわゆる反省する)こと、できるだけ善い行いを重ねること。そのようなある意味「神という後ろ盾」を持つことで、安定した生活ができるのだろう。
宗教に懐疑的、否定的な方からしたら
「全てを神のせいにしている」ととられてもおかしくはないだろうが、それで彼らが安寧を得られるのならばそれでいいのではなかろうか?
もちろん、無理に勧誘するような人間は神からしたら「罰せられる」対象になるであろうし(会話をしていてそう感じた) 「信仰しない者には罰が下る」などと脅すような宗教はそもそも信仰するに値しない。まともな宗教、信仰している人間であればそのようなことを言うわけがないのだ。
自分が話を聞いたのはクリスチャンの方からだけだが、「天の御父様は全てをご覧になっている」とのこと、嫌がる人間に無理やり信仰を押しつけるような行為をはたして「天の御父様」という存在は喜び、認めるであろうか? 自分の考えは否である。
彼らは自らの意思で自らの信じる神に祈りを捧げ、善行を重ね、悪行を避け、それをしてしまった時には悔い改めを行う。
自分は信仰はしていないので祈りを捧げることはないが、人間として正しい姿なのではないだろうか、とは感じる。
子どもにも「悪いことをしたらごめんなさいを言いなさい」と教育するではないか。
神などいない、信じない、という人はそれはそれでいい。
ただ彼らの信仰は彼ら自身の中で完結している分には否定されるべきではない。信仰を押しつけるのがよくないのと同じく、信仰しないことを押しつけるのもまた、よくないことだと考える。もっとも、お布施という名で信者から金を巻き上げ、やれ額が少ないと罰が下るなどという「宗教もどき」に身近な人間がはまりこんでいたら止めるのは当然のことだろうが。
「信教の自由」は憲法で保証されている。
自分は積極的に「信仰」はしない。しかし、彼らの言動を見ているとあながち、奇跡や罰、思し召しがないとは言えないな、とは思う。
彼らがそう感じたのなら、彼らにとっては真実であり事実である。
自分自身の経験では、彼らが「祈ってくれた」ことを元に自ら「苦難から逃れるための行動」をとることができた。結果救われることも多かった。それは「単にお前が動いただけだからだろう」と言われれば完全否定はできないが、彼らの「祈り」を受けて行動を起こせた、とも言える。なので、私は彼らには深く感謝をしている。
まとまりがなくなってしまったが、「積極的信仰」を持たない人間が「特定の対象を信仰している」方によって受けた影響、彼らの考えから感じたことを書き連ねてみた。

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