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「偽善者」が世の中を悪くする。みんな「偽善者」を駆逐しよう。

偽善者
- 上辺だけ善人に見せかけるような行為をする人のこと
本来の利己的な目的を隠し、利他的な偽りの目的を掲げて行動している人

PP0の定義

以前どこかで書いたこともあるかもしれないが、
「偽善者」という言葉は今の僕の人間性を形作る上で大きな影響をもたらした。

あれは中学2年生のこと。
その時までの私はまるで聖人君子のように曇りなき眼で世界を見ていた。
「良いこと」をすると人は喜ぶ。「悪いこと」をすると人は嫌がる。
この単純な法則でこの世界は回っていると思っていた。
だが、世界はそんなに簡単ではなかった。
自分にとって「良いこと」が他人にとっては嫌なことかもしれないし、「悪いこと」を実現するために「良いこと」をする場合もある。

それに気付かせてくれたのが中学時代の同級生N君だ。
僕が同級生のAさんに告白されるところを見ていたN君は、そのことを他の同級生に言いふらしたあげく、Aさんに対してフラれたことをいじり始めた。
それを見ていたたまれなくなった僕は「かわいそうだからそういうのはやめて」とN君を注意した。
するとN君は、当時何かの漫画で覚えたばかりであろう言葉を使って「偽善者~偽善者~」と罵ったのだ。

当時の僕は大いに傷ついた。
僕にとってはAさんを庇ってN君を注意することは、Aさんを救いたいと本心から思っての行動だったのだが、N君にはそれがモテたいとか好感度を上げたいという「利己的な目的」の実現のために行っている偽りの「利他的な行動」に見えたのだろう。

この経験から僕は性格が少し歪んでしまった。
「善意」だけでは世間は渡り歩けない。
今回のように偽善と捉えられて、非難を浴び続けるとなると僕の心は壊れてしまう。

そう理解した僕は、世間を上手く生きるために「偽悪者」となったのであった。
(なんかこの設定で物語書けそう。)

あれから十数年。巷には偽善者が増えているように思う。


たとえば、SDGsを意識した行動を取っていることをアピールする企業。
何のためにSDGsを意識しているのかと聞くと「ブランディングのため」や「採用で有利だから」とか、結局自社の利益を最大化するための道具としてしか見ていない。
外面だけいい顔をして中身の伴っていない、まさに偽善者だ。

その企業に所属する人も同様だ。
あのカラフルな丸いバッジをスーツに付けて、SDGsを表象しておきながら、内実はSDGsなど対して理解もしていない。
会社からの指示で付けさせられているだけかもしれないが、こっちからすると「SDGsを表象するバッジを付けていながらガソリン車に乗って工場で作られた製品を営業して回っている変な人たち」にしか見えない。

目的は自社利益の最大化でもいいから、せめて意味のある行動に移してほしいものだ。


あと、ポリコレをやたら意識した創作物。
同性愛やジェンダー問題などを半ば無理やり(のように見えることが多い)ストーリーにねじ込んでくるものが増えたように思う。
例えば、「どうする家康」でも家康の側室お葉が実は同性愛者で、家康への奉公も本意ではないというような書き方がされた。
もちろん、同性愛者がいてはいけないという話しではない。戦国時代でも実際同性愛者は当たり前のように存在したのだろう。
だが、いまいちしっくりこない。
これで物語が面白くなるのなら別にいいが、別にそうでもないと思う。
物語の本筋と関係ない設定をわざわざ持ってきてそこに時間を使わなくても、、と思ってしまった。(この設定が伏線になっているとも考えづらいが、そうだったら古沢さんすごい。)
世間への配慮とか問題提起として入れ込んでいるだけなのではないかと邪推してしまう。

歌舞伎町タワーには性別による区分がないトイレというものも登場したそうだ。
果たして、世間のLGBTQの人たちはそれを本当に求めているのか?
世間に対してのポーズに過ぎないような気がしてならない。


そんな「偽善者」を見つけたら、
「偽善者~偽善者~」と罵ってあげよう。そう、過去に僕を苦しめたN君のように。
もしそれが本心からの善であったとしても、「このやり方は本質的ではない」と気付くかもしれない。
本当に偽善者なら、偽善であることが世間にバレて批判されることを怖れ、行動を見直すかもしれない。
そうして偽善者をこの世から撲滅するのだ。



ただここで一つ問題がある。偽善が本当にダメなのかということである。
目的を偽っているとはいえ、善は善である。
SDGsの件でも、会社としてはそれが本質的ではないにせよ、何かしらの取組みはしているはずだ。
その取り組みは、小さいとはいえ何かしらプラスの影響を与えているはずであり、「偽善者と呼ばれるくらいなら」と拗ねてその小さな取り組みすらやめてしまわれると、小さなプラスもゼロになってしまう。
これでは僕の偽善者撲滅運動は逆効果を生んでしまうかもしれない。

だが僕はそれでも「偽善者」の撲滅を呼び掛けたい。
合理的経済人を仮定すると、「偽善者」と言われた人が取るべき行動は「より真の善に近い行動をする」である。
本当の目的だけに沿った行動を取って非難を食らいたくないから目的を偽っているのであって、善を偽ることを辞めるとは考えにくい。
そして、偽善者と呼ばれ続けることはマイナスイメージに繋がるので、より本質的な善に近い行動を取るようになる。
こうして世の中から偽善者はいなくなるのだ。


人に「偽善者」と言うのが怖い人は、まずは1日の終わりに自分の心に「今自分は偽善者じゃないか?」と問うてみるだけでいい。
自分が偽善者だということを自覚すれば、人は真の善を目指すだろう。
偽善者と呼ばれながら生きるのは苦痛だ。僕は知っている。

とにかく、「偽善者」という言葉は万人の立ち振る舞いを変える力を持っている。(過言)
自分自身が「偽善者」と言われないように行動することで、社会は万事良い方向に進んでいくのだ。(過言)


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