最低の趣味

小説家になろう、というサイトは皆さんご存知だろう。

言わずもがな、好意的悪意的問わず何かと話題に事欠かない、日本で最も熱い小説投稿サイトである。

そして「小説家になろう」に触れた者の多くは、ほぼ同時期に「なろう系」という言葉を知ることになる。

「(小説家に)なろう」の「系」、すなわち「小説家になろう」でありがちな作品のことを示す括りだ。

大概、この言葉は「小説家になろう」に対する非難の文脈で用いられる。同義語として「〇〇太郎」というものもある。これはアニメ化した「なろう系」タイトルに使われる。キャベツ太郎


異世界転生、異世界転移、チート能力、ハーレム。

黒髪、黒目、ユニークスキル、プログラム知識を流用できる魔術体系。

そしてトラック。


「なろう系」と揶揄される作品に多く見られる要素である。(しかしこれはもう古いらしい)

サンドバッグに飢えたコンテンツウェイスター達はこれらの要素を見るや否やその作品を「なろう系」とカテゴライズし、扱き下ろす。老廃物と空気中のCO2割合を増加させることしか能がない彼らはその罅だらけの自尊心に排水を注ぎ、漏れ出るのに気づかぬまま生涯を終える。

だが彼らの矛先はランキング上位に食い込むような、内容はどうであれ需要のある作品、一定の評価を得た作品である。

つまるところ僻みである。自分でも書けるような(書いたことはない)駄文で多数からの承認を得、あまつさえ少なくない金銭を得られる「まぐれ当たりの小説家もどき」に対する嫉妬が根底にある。

その心理構造の、なんと自然的なことか。遍く大衆の、その殆どが経験したであろう感情による行動。批判はされど否定はできぬ、きわめて人間的な論理だ。もはや美学であるとさえ思う。

違う。

そうではない。

私の戦場は「未評価作品一覧」だ。




ひとくちに「未評価作品」と言っても、そこには重要な線引きがある。

それは「評価を受け付けているかどうか」と「他サイトの転載かどうか」だ。

評価を受け付けているかどうか。これは説明せずともわかるだろう。どんな傑作も、評価できなければ日の目を見ることはない。

もちろん砂漠に埋もれたダイヤを探すが如き浪漫を欲するならば、この未踏の雪原を訪ねるべきだ。

しかしそうではない。

私が探している地は確かに未踏だが、それは誰にも見つからなかったからではない。

足を踏み入れる事さえ出来ぬ魔境であるからだ。


「他サイトの転載」も「評価の可不可」ほどではないにしろ、留意すべき点である。

これは既に完結しており、かつ全話が一括で投稿されている作品に多い。

小説家になろうというサイトは連載が主である。もちろん完結済みの作品のピックアップもあるが、それは一度きりだ。連載していれば更新・新着順で人目の付きやすいスペースを何度も占拠できる。

継続は力なり、が可視化されている。

よって他サイトで連載され、完結後になろうなどの他サイトへ転載された作品は人目に触れることが少ない。

そもそも元サイトで評価されていれば、その作品は厳密には「未評価作品」ではないし、完結などしていればもう目も当てられない。まっとうな小説家だ。

私はなろうで、完走できる小説家を求めていない。



そうなると残された作品群と言えば、「評価を受け付けており」、「各話ごとに更新している」にもかかわらず、「評価をされていない作品」である。「長期間更新されていない」ともなれば殊更良い。

誤解を受け入れ、歪曲を正さずに言うなら、それは「死んでいる作品」である。

私は末期、小説家になろうに対して、「死んでいる作品」を求めていた。



かつて、あるいは今も尚、私は文字書きでありたかった。実際いくつかの文字列を生み出し、とあるサイトで公開したこともある。

反響も悪くはなく、評価数こそ少ないが、10段階評価で言えば半分よりは上である。これには某サイトの民度、審美眼に依るところも少なくないだろうが、なまじっか(予想以上の)好評を得てしまったために、稚拙な自尊心が出来上がってしまった。

かといって、私に物書きの才能はない。いや、才能があるかどうかすらわからない。ロクに本も読まず、浅知恵と知ったかで世を生き抜いてきた人間に、物を書けようはずもない。

だが。だからとて態々本を読み、作法を学び、構想を練って作品を完成させようという向上心も、私は持ち合わせていない。

私にあるのは矮小な矜持と、煤けた実績だけだ。

それでも、私は自分が物書きだと思いたかった。私は作品を生み出し、評価されたのだ。もう新たな構想も、惹く展開も浮かばないが、私は物書きだったのだ。

眠り見る夢は、目を覚ますことですっかり忘れることができる。

ならば、覚めて見た夢は、どうしたら忘れられるのか。

あるいは未だ、私は夢に囚われたままなのかもしれない。




「未評価作品」とは、きっと諸兄姉が思っているよりも多く存在している。検索機能で「評価を受け付けない作品」を除外してもまだ、多い。

その中で、私は作品を探す。名文だが、日に当たることなく萎み、枯れていった作品に同情し、世間に憤るためではない。若く、脇が甘くとも、緻密な設定、巧妙な筋運びの、才能の萌しに期待するためでもない。

ただ、己よりも劣った書き手が、誰からも評価されていない様を眺めるためである。

そこには僻みも、嫉みも、妬みも無い。

ひたすらに書き連ねられた文を、己の価値観のみで「以下」と判別するだけだ。

誰かを楽しませ、胸膨らむ世界を提供するための創作に対し、「これは読むに値しない」と下す。


ありふれた設定、ありふれた登場人物、ありふれた展開。拙い文章。

行き過ぎたご都合主義、役割に食われたキャラクター、ころころ変わる視点。

批判点を内包した逆張りメタ作品。新規性が見られない展開。四角い車輪の再発明。


素晴らしい。これでこそこれらは「未評価作品」たりうる。唾棄すべきサーバーの塵芥だ。

下らない脳内世界を、幼稚極まりない駄文を連ね、気の赴くままに謳歌する。

己が触れてきたコンテンツが如何に少ないか、如何にレパートリーが貧困か。

貧相な我が身を曝け出し、全世界へひけらかし、それでも何処にも届かなかった。


文頭で一字下げていない。文体が統一されていない。かっこの使い分けがされていない。

表記が揺れる。口調が揺れる。主張が揺れる。

いつか自分が否定したはずの、本質ではないと一蹴したはずの形式を引っ提げて我が物顔で謗る。


見よ、この世界は、こんなにも溢れている。

これらが、彼らが、自由に思い、筆を走らせた数キロバイトの徒労が。

私の牙城は、彼らの砂上に成り立っている。











※この記事はフィクションです

僕はここまで露悪的ではありません。

ここはどこだ