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祖母との思い出

友人の祖母の話を読んで、私もたまには祖母を思い出そうと思って書いてみる。

読んでいて気持ちの良い話ではないだろう。ただ私は祖母の死を恥じてはいない。だから、ここに書く。
いや正確にいえば、最近のニュースから表現のあり方を自分なりに考え、祖母の死を対外的に恥じなくても良いのではないかと思い至り、ここに書き記す決心をした。

私の祖母が亡くなってから十年弱の年月が経っている。今書いていてそんなに経ったのかと驚いた。
私の幼少期の育ての親は祖母である、と断言しても過言ではないくらい祖母にはお世話になった。小学生になっても週末は祖父母の元に通っていた。高校受験のため足が遠のいてしまったが、頻繁にメールのやりとりはしていた。亡くなる1週間前、何の気なしに「長生きしてね」と打とうとして不吉だからやめたことを覚えている。亡くなってからしばらくはあのメールを出せばよかったと後悔した。

祖母は病死ではない。自死だ。
(ここではこれについては語らない。「死について②」にて記す。)

祖母との思い出

幼い私は「月が追いかけてくる」と言って泣いたそうだ。私が初めて発した言葉は「ドーン!」だそうだ。祖父母の家のベランダから見た花火に対して発したのだと聞いた。
初孫である私はそれはそれは可愛がられた。
アスレチックには毎日のように連れて行ってもらい、泥だらけになって帰ってきて一緒にお風呂に入った。お風呂でも遊べるようにと集めてくれた"私のおもちゃ"は今でも押入れのどこかで眠っているはずだ。お風呂だけじゃない。"私のモノ"はあの大きい家の一角の押入れを占領していた。
ひらがなを教えてくれたのは祖母だった。当時の母は勉強は小学生になってからと頑なに教えてくれなかったので、祖母にこっそり教えてもらったのだった。
泳ぎ方も祖母から教わった。背浮から始めさせてくれたことで水に慣れ水が好きになり、その後水泳部に入り、形は違えど今も水泳(日本泳法)をやっている。これは祖母との始まりがあったからこそだ。ちなみに流派は違うが祖母も日本泳法をやっていたらしいと最近になって知った。祖母から日本泳法を教わった記憶はないが、知らぬうちに祖母のルーツに触れていたようだ。
中学生になり、祖父母の家に通うのにも○○ちゃん(私)が心配だからと送り迎えをしてくれた(新幹線に乗るわけでもなくただの快速、たかが2時間そこらの関東圏の、しかも日中の電車移動にも関わらず….)。
そんなこんなで定年退職を迎えていた祖父母には大変お世話になったのだ。

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タイトル画像にも設定したが。祖母の部屋にはルノワールの《ムーラン ・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》の1000ピースのジグソーパズルが飾られていた。祖父の友人から貰い受けたそうで、祖母は作成にひどく時間を費やし大変だったとよくこぼしていた。好き好んで製作したわけではないというような口ぶりだったが、祖母の部屋にはずっとこの絵が飾ってあった。祖母の部屋の日差しも相まって、幼心に絵の柔らかさに心惹かれたのだろう、私はその絵を見るのが好きだった。
今の私はジグソーパズルが好きでどんなに忙しくても年に1枚は完成させる。絵画も印象派の絵が好きで美術館にもよく足を運ぶ。今思い返せば、あの絵の影響だろう。そういえば初めてジグソーパズルに取り掛かったのは祖母を思い出したかったからだった。いつの間にか自分の趣味の1つになっていたなぁ……

祖母の代わりに

祖母が亡くなったその年に従兄弟が生まれた。もう今ではその子も小学生だ。私は時々その子たちの家へ行く。私はあんなにも祖母に恩恵を受けたのに、この子たちにはそれがない。少しでも私が返してあげたい、と思うからである。でも祖母の存在は私にとって大きすぎて、全てを返すことはできないのだろう、とちょっと哀しく、ちょっと誇らしく思う。

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