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言語化しないことによるさみしさを抱えてでもあの月夜は月夜のままわたしのなかで / 酸いの自家栽培から抜け出して

2024年4月26日

・確実な喪失感がある。何を喪失したのかという説明は不要だし、そもそも説明し始めたらそれは喪失でも何でもないのだと、はじめから私の手の中にあった瞬間は一秒たりともなかっただろうと頭では結論付けるだろう。それでもさみしいのだ。さみしさを感じるのはおかしいのだと、さみしさを感じるべきではないのだと、さみしさを感じるぐらいなら自分のことに集中するべきだと、そう思っても、本当に駄目なときがあるのだ。

・自分のやるべきことを順当にこなせている感覚があって平気な瞬間がある。痛みに酔える瞬間がある。痛みすら感じないぐらいに疲れていて布団に入った瞬間ねむることだってある。でも、そのどの瞬間でも底には痛みの感覚がある。苦しい。はじまっても終わってもない時間軸の中で、私だけが苦しんでいるのではないかと一番取り出しやすい体感では思うが、そんなはずはない。「これ」で苦しんでいるのは私だけだろうが、苦しみ自体は誰にでもあり、それは誰にでもかなり根を張っているのだと思う。

・さみしい。世の中にはひとりで死にたいひとがいることをつい最近知った。そのひとは私を、「本当に人が好きなんだろうね」と言った。もっと昔、誰とも心を通わせられなかった私は、ひとりがすきなんだろうなと思っていたが、蓋を開けてみたらどうやら割と人が好きなのかもしれない。夜眠るときに必ず、本当に必ず、身体的に半身欠けているような気がして、その分の空白がさみしく感じられるのは、多分あたりまえではないのだ。いつか埋めたいそれは、でもいまは決して埋まらないのだと思いながら生きるしかなくて、もっと正確に言うなら、すべて言葉にできなければふさわしいそれに出会える気もしていないので、放置しているのだが、とにもかくにも私はそれも含めた全般的な孤独感に向き合うしかないのだ。

・月。月が○○だった。あてはまる言葉をここに入れる気持ちにどうしてもならない。昨晩、部屋の窓を開けたら、すごくいい感じの景色が広がっていた。そこに月があった。心に深く、、、残ったという言葉では生温く、それは私の心をそこそこ埋めていた死骸を奪って、からっぽを残していった。死骸というか、のっぺりとしていて心のなかの、意識せずとも自動的かつ機械的に動いていた部分を奪っていった。のっぺりとしていたそれに対しては完全に何の感情も抱いておらず、存在を意識する必要すらもなかった。好んで胸に宿していたわけでもないので、なくなったこと自体にはどうも思わないし多分いいことなのだと思うけれど、でも仮初めでも心を埋めてくれていたものをむしり取られると空虚感でおぼつかない感じになった。誰かとこれを見たかったと強く思った。常にうっすらとあるさみしさを埋めるためにそこそこ綺麗な景色をダシにして誰かと一緒に居たいというわけではなく、目の前の風景を前に平静でいられない心とその誰かの心とが、どこかで重なるような感覚があってほしかったのだと思った。月を見終えた今日、その夜のすごさを言葉にしようとすることはできるし、月夜を見てエモーショナルな気持ちになった経験は多くの人にあるだろうからそういった意味で誰かと体感を重ね合わせることはできるのだろが、それは非常にライトなものであって、その軽薄さはあの夜をどうでもいい夜と同じものに変えてしまうのだろうと思う。昨晩、隣に誰かがいればよかった。ひとりで見収めたあの月夜は、心に穴をあける類のものだった。でも、その月夜の自分にとってのすごさを言語化することによって穴を埋めようとするぐらいならば、その穴ごとあの月夜を自分のなかに沈めておいた方がましなのだ。



・すべてを奪いたい。奪われたらきっと痛い。自分の心を根こそぎ奪う言葉は必ず痛いと思う。でも、すでに言い表されている言葉を使ったら、その言葉は今までの人生とこの生命をすべて肯定するのだと思う。そういう言葉を食らわせたい。言葉によって痛みを感じることはたくさんある。虚無感や絶望を引き連れてくるタイプの痛みであることもあるし、というかむしろそっちがほとんどだと思う。現実を直視するという言葉を使うとき、絶望感が伴っているほど真実味を感じる。でも、そうじゃないと言いたい。これは本当にそうじゃないわけではなくて、ただ自分のわがままとしてそうじゃないと言ってみたいなあというだけだ。最終的に前向きな言葉だけがすべて正しいわけでもないし、第一そういう言葉は必ずなにかを削ぎ落す。必ずである。必ず何かを削ぎ落す言葉を、自分は常に放ってきた。現実を直視するというか、すごく最悪で軽い言い方をすると鬱っぽい言葉の数々が、無理だ。なんかもうそうとしか言えないが、私はやはりそこに近づけないし、そうはなれない。そうなれたらよかったのかもしれない。その深度でしか語れないことも必ずある。でも、なんというか、私はそれに触れると精神的・身体的に自切してしまうのだと思う。もうすでに私は生きているだけで自分を苦しめる類の概念に縛られまくっている。自分でさらにそれをきつく縛り付けている。だから、バランスをとるために、そのような言葉には触れられない。酸いも甘いもすべて触れて、そのうえ自分をコントロールする人間に、ずっとあこがれている。忘れもしない、ある日数名でドライブに行ったとき、私は帰りの道中で「酸い」を存分に浴びて動けなくなったことがある。それでその場をぶち壊した。あの時は自分でも本当に意味が分からなかったけれど、そういうことは自分の中でよくあることだったと今ならわかる。目の前のうっすらとした「酸い」から、将来自分が必ず陥るであろう困難を何通りも想像して、全く動けなくなってしまうこと。高校から、大学から、職場から、動けなくて家に帰れない体験を何度もした。「酸い」が自分の頭の中で何度も何度も何度も何度も増幅されて、反復する。脳が麻痺して体が動かなくなるぐらいに、自分の頭の中で絶望を振り回す。だから、些細な苦痛の種のようなものから、自分は自殺したほうがいいという結論をすぐにはじき出してきたのだ。

・多分頭の中の「早く解決しなきゃ」「早く行動しなきゃ」となる回路が人よりも短絡的なのだと思う。危機感を感じやすい。早くどうにかしなければと思うが、そのなかには時間をかけてゆっくりやったほうがいいことや、じっくり計画を立ててから行動に移した方がいいことや、疲れているので回復を待ってから行動に移した方がいいことや、自分の力だけではどうにもできないことがある。それをやろうとしてしまうと、身体が疲れて動けなくなったり、自分の衝動を他人にぶつけて迷惑をかけてしまったり、他人のスピード感に合わせられなくてイライラしたりさみしさに耐えられなくなったり、時間がかからないとできないものなのに自分が想像していたスピードでできないものだからすぐにあきらめてしまったり、危機感が先走ってとりあえず置いておくことができないから死んだ方がいいという結論になったりする。

・その性質が有利に働いたことも当然ある。元気な時にはやらなければならないことをさっさと終わらせられたり(さっさと終わらせなければという強迫観念が常にあるから、元気な時はすぐに終わって、元気じゃない時は強迫観念を置いておけなくて軽率に死にたがっていた)、あれほど行きたくなかった高校・大学もストレートで卒業したり、会いたい人にすぐに会いに行って元気を取り戻したり、やりたくない仕事からすぐに離れることができたり、行きたい場所に突然踏み込んでいけたりした。


・話を戻すが、あらゆる種類の映画、小説、マンガ、アニメなどなどを取り込める人間であればよかった。ダンガンロンパのおしおき動画を見ても日常生活に支障がない人間であればよかった。(ダンガンロンパはタイトルコールがなんだか耳に心地よいので、それだけ繰り返し再生していた。内容はほぼ全く知らない。)

・あえてはっきりと書くが、好きな人のことが好きな割には、好きな人の文章に触れたくないと感じていた自分がたまらなく嫌だったし、それならその好きは軽薄すぎるだろと思っていた。そして、すごく雑なまとめ方をすると心が痛くなったり苦しくなったり、絶望を近くに感じる文章が読めない自分がすごく嫌で、でも読めるようにもならないだろと思っていた。この文章を書き始めたときは完全にそうだと思っていた。

・でももしかしたら、危機感を一旦置いてぼんやりする能力を身につけたら、いろいろな作品を強迫観念から一歩離れた位置にしまっておけるのではないかと思った。過度に自分に寄せずに作品を読めたら、相手の言葉を聴くことができたら、目の前の悲観的な現状を見つめられたら、それは自分の世界がかなり豊かになるのではないだろうか。今までは、元気がないとき、悲観的な自分で傾いている天秤の逆側に希望にあふれる言葉を乗せることによってのみ平衡を保とうとしていたが、それでは希望にあふれる言葉しか受け取ることができない。そうではなく、自分だけでぼんやりと平衡を保つことができて、周りの多種多様な言葉や価値観が常に手に届く位置にあるのならば、それはどんなにいいだろうと思う。そんなふうになりたい。


・あなたのことを、かつてないほどにもっと知りたいと思っている。いままで私は何度も「あなたのことがわからない」と言った。わかるための材料がなさすぎると今までの私は思っていた。でも、それはわかるための材料がなかったのではなく、わたしが及ばなかったのだ。そしてそれは、理解しようとしていなかったという努力の欠如の問題だとまず思ったが、そういうわけでもなかったのかもしれないと今思った。どこかあっさりと文章を読み流していたのは、そうしなければ心を守れなかったからだった。そこを努力して来るべきダメージに苦しんでいたら、多分私はもっと短絡的な行動をとっていた。いま、もっと知りたいと思い始めたこと、あのとき適当に読み飛ばしてしまっていた文章を振り返った時になんだかぞわぞわすること、そこにはたぶん意味がある。

・ということも諸々含めた過去を言語化する試みなので、予想以上にとっかかりが掴めない日々です。でも、今日の日記はかなりいいぞ。文章を書きながら最初の想定が裏切られていくときは、なんだか言語化がすごくうまくいっている気がする。言語化の試みを始めてから今日が一番何かを掴んだ感覚があった。


・夜の空気が気持ちいい。


・さようなら


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