後悔についてのあれこれ

2020年5月31日
・そうとう更新頻度が落ちてきた。ある程度の決意をもって私が始めたことは、大体1か月~2か月でやらなくなる。インスタがその例である。そして、やらなくなったら、やったことを後悔するようになる。やらなくなったということは、やっていたことに意味が見出せなくなったから、もしくはやっていたことが嫌になったからである。いままで作ってきたものは、嫌悪感がつもりつもってほとんど消した。インスタに関しても何回もアカウントを消そうと思ったが、消したときが一番恥ずかしいような気がして消さなかった。今は、自分のインスタの投稿を一切見返さないことで精神を保っている。

・この日記も、書いた時の心情と今の心情にずれがあった場合は、後々に消すと思う。だから、なるべく長期的にフラットな部分を切り取って書きたいと思っている。それが、感情的なものより論理的なものの方が適切だと感じている理由である。だが、気分が高まっているときや社交的になっているときは、理屈をこねくり回していることの方が恥ずかしく感じられることもあるので、難しいなと思う。わたしは長期的にあり続ける自分についてしか表現したくないが、今の自分の感情はそのときの脳内物質の量だし、今の思考の内容は近い過去や近い未来のことだから、どこから引っ張り出せばある程度普遍的なものなのかがよくわからない。対策としては、何日かおいてから投稿するのが一番良いと思うが、書き終わった直後は達成感があるので、すぐに投稿したくなってしまう。昔と今のずれが残ることに対して恥ずかしさを覚えない人がうらやましい。

・後悔というと、私は「あのときやらなかったこと」で後悔していることがほぼ無い。唯一のやらなかった後悔とは、高校生の時に自販機に売っているサントリーの「いちごミルク」を一度も飲まなかったことだ。もし、あれを飲んでいたら、高校生活の充実度があと10%ぐらい上乗せされていたはずだ。しかし、やらなかった後悔はそれぐらいである。なぜなら、普段の私は綿密に調べて行動することが多い(それなのにへまをする)が、悩みすぎると、考えるのがめんどくなって脳死のままやってしまうことが多いからである。つまり、「あのときやったこと」で反省することはままあるけれど、反対はないということである。加えて、悩んでやったことは、結果的に未来においては意味もないことが多かったし、良くない結果をともなったこともあったけれど、後悔はしなかった。唯一後悔したのは、インスタだけである。

・最終的に、わたしは迷ったら、リスクが大きい場合はやらないようにしようと思う。なぜなら、大体悩むことは賛否両論なものであり、どっちでもいいのだから、リスクが大きい場合はやらないに越したことは無いと思うからだ。よく考えたら、当たり前のことである。

・話が前後してしまうけれど、本当に高校生の時に「いちごミルク」に出会いたかった。私の実際の高校生活にはほぼ華がなかったと思っているけれど、放課後に1人で小教室でぼうっとしたり、電車に乗っているのは楽しかった。そのときにはいろんな音楽を聴いていた。だから、音楽が自分のかろうじての青春の成分である。特に、相対性理論というバンドの音楽が大好きだった。相対性理論の音楽を聴いていると、現実にはまったくなかった青春の中にいる感情がとてもリアルに想起されて、穏やかな高揚感があった。もし、相対性理論をききながらいちごミルクを飲んでいたら、もっと最高な気分だったと思う。

・いまも相対性理論は好きだし、高校の頃よりもっと好きだと思う。大学1年の夏頃、高校までのコミュニティのほとんどを失った(というか関係を続ける努力をしなかった)私の孤独感を、相対性理論の曲で満たしていた。苦しくなりながら続けてきた対人関係でも、失ったら喪失感があったからだ。きっと、高校生活が充実していた人にとっては、より喪失感や孤独感が強かったんだろうな。

・大学生になってから、私は毎朝しんどい思いをすることが無くなったし、常に感じていた絶望もかなりうっすらとしたものになった。だから、それを忘れないように、たびたび高校の時の通学路を歩くようにしていた。通学路を歩くと、あの時の絶望が情報だけでなく感情としても思い起こされるからである。思い返すというよりはフラッシュバックに近い。そこまで落ち込んでいたことがあったことを思い出して、どうしたらあの時の状況を抜け出せたかを考えて、あの時の自分(もしくはあの時の自分と同じ状況の他人)を救う人間になる必要があると思おうとしていた。

・しかし先月、久しぶりに通学路を歩いた時、あのときの感情を思い出せなくなっていた。あの時の絶望を自分ごとのように感じることができなくなっていたのだ。そして同時に、「過去の自分を救う方法を探る」という生活の根拠が失われつつあることを感じた。なぜなら、それを目的に心理学やほかの学問に触れていると考えていたし、それを目的に職業について考えていたからである。だから、過去の自分を今の自分のように思えないということは、人生の目的を失うことと同じように感じられた。

・ネガティブな感情の時は、その事実に対して大きな喪失感を感じるとともに、苦しんでいる人がいると知りながら無視をしているという罪悪感を感じる。ポジティブな感情の時は自分の人生を義務に則って生きるのではなく、楽しむために生きることができるようになったと感じて、1つ乗り越えたのだと感じてうれしくなる。そこにはまだ、自分の中で統合された感情は生まれていないが、後々すべて肯定できるようになればいいなと思う。

・それはともかく、相対性理論はめっちゃいいから聴いてくれよな!

・さようならん


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