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だがそれでいい

2023年11月29日

・この空間、めちゃくちゃいい。

・左側に旅館みたいなスペースがあるけれど、そこが光ることを昨日発見した。ふすま越しに光らせるのはめちゃくちゃいい。めちゃくちゃいいのですが写真を撮り忘れた。いまはスマホを封印しているので写真を撮ることができない。

・今日は1日、誰も寄せ付けないオーラ(当社比)を放っていた。もう金輪際誰も話しかけないでくれと思っていたのだが、仕事後に少し寝たらあっという間に調子がよくなった。昨日眠らなかったわけではないのに、なんでだろう。

・昨日から謎に夢日記を始めた。夢日記ってやり続けるとよくないみたいな都市伝説があって若干ビビっている。やろうと思ったのは、和歌山県に来てから夢をたくさん見るようになったうえに、夢の性質が変わったからだ。

・今年の7月~9月頃は、課題をしなくてはいけないのにやっていない夢や、学校に行かなければいけないのに遅刻している夢を毎日のように見ていた。どこかで見たのだけれど、本当に何もしていないと、何かしらをしていた時の、その何かに追われる夢を見るらしい。私は起きたときに、「ああもう課題を出す必要はないんだ」「学校に行く必要はないんだ」と安心して、その次の瞬間、「じゃあ自分はなんのために生きているのだろう」という風に思った。

・寮に来てからは、そもそも夜に寝て朝まで眠り続けるということがなくなった。1日ごとに中途覚醒が2回ぐらいある。そして、現実的な問題に関する夢が多くなった。昨日は、自分が悪人だと思っていた人が実は悪人ではなくて、だとしたらその人を悪人だと思っていた自分こそが悪人だったという夢を見た。それに加え、友達と一緒に買いたくもないお土産屋さんに並んで、いざ買おうとしたらお金が無くて買えなかったけれど、後で見たらお金があって、「あの時お金がないように見えてよかった」と思う夢を見た。どちらの夢も、自分の現状の深い部分に重なる点があって、侮れないなと思う。もう1つの現実世界みたいだなと思った。

・分析したところで、どうするのだろうか。今の私は、分析とか言っている間にすべて終わっちまうぜと思っている。自分を掘り進めていって自分の反省点を見つけてそれを改善することは、優等生過ぎると思う。なんかもう、そういうことよりももっとスケールの大きいことをしたい。

・なにがしたいのかを昨日考えていたら、ふと、暴れたいと思った。相手とどのぐらいの距離感で接すれば自分を保てるのだろうと考えていたけれど、そもそも相手と接していて過剰な負荷がかかっているのは自分が自分を出していないからだということに思い至った。我慢をして、我慢をさせられているという誤認にしたがって相手を悪人だとみなしていたけれど、そもそも悪人に仕立て上げていたのは、自分を出していない私だった。だから、誰かを悪人だとみなす前に、私が悪人になる必要があるのだと思った。

・でも、自分を出すことは難しい。今日の場合は、そもそも相手の前で出したい自分などなくて、ただただ一人になりたいと思っていた。そして、一人になりたいと言えるわけもなく、ただただどうすればいいのかが分からなかった。

・一つの仮説を立てると、反証が立ち、そしてその反証が立ち……というのを無限に繰り返して訳がわからないことになる。そういうことの先に進みたい。私は今、現状の突破できなさに対して、そういうことの先に進みたいとことあるごとに思う。

・今日は疲れた。多分、思っているよりはるかに疲れているのだと思う。お風呂に入る気力がない。あともう少ししたら、生きる気力がなくなると思う。現状をどうにかしたいとかではなく、あなたに会いたいとか、全力で歌いたいとか、そういう力強さがほしい。足りないものばかりのはずなのに、いざほしいものを聞かれたら途方に暮れるのだろうなと思う。この頃の私はずっと灰色だ。つらいという感情すら、もやがかかっていて、何が本当につらいのかがわからなくなっている。ただ漠然と息苦しい。

・漠然と助けを求めたいのは、どうやったら助かるかがわからないからだと思う。そういうことの方がやっかいなのかもしれない。いや、お金がなくて生活が苦しいという悩みの方が身に迫って苦しいのかもしれない。どうなんだろう。いつかお金が無くなるかもしれない、そうしたら苦しいかもしれないと悩んでいる方が苦しいのだろうか。こういうことを考えていること自体がナンセンスなのだろうか。ナンセンス、自分はきっとずっとナンセンスなことに頭を使っている。あの人なら、この人なら、きっとこんな地点に立ち止まらない。もっと高い地点の悩みに臨んでいるはずだ。生きるセンスがない。生きるセンスがないなんて言葉は何の核心も衝いていない。ここには誰も自分を助けてくれる人はいない。そうやってまたお前は人を寄せ付けないのか。


・でもいいよ。その苦悩が、君を君たらしめるのだと思う。私は、死ぬまでこの身体の外にはいかない。他の誰でもない、君の苦悩に没入し、この世の終わりと思うまでに浸って、そしてそれをいつか思いもよらない形の塔として自分の中に築き上げるまで、ずっと付き合っていこう。私は、この身体を媒介しないとなにも知覚することも、思うことも、考えることもできない。同じ状況で、もっと空の青さを鮮やかに感じられたり、現状を楽観的に見ることができたりする人はいるかもしれないけれど、その仮定に意味はない。私は私の身体を通してでないと存在できない。何も思うことすらままならない。この苦悩を抱える自分を愛そうとしなくても、自分でなくなる瞬間がないというだけで、十分に自分は自分を愛している。私が私の身体の元に生まれてきただけで、もうすでに自分を十分に生きる保証があるのだから、どう生きたところで自分という存在になれる。何者にもなろうとする必要はなく、そもそもなれるものでもない。そして、今更自分になろうとする必要はない。自分ではない何者かになるための「よりよい自分」になる必要は全くない。そして、自分の心の赴くままに生きることを「よりよい自分になる」とは言わない。なにも心が動かなければ、それでもいい。つらい気持ちになる自分を否定しなくてもいい。すでにどうしようもなく自分なのだから、自分の心の中の向上心や感受性の無さを疑う必要もない。この身体に死ぬまで留まり続ける私が、一番の味方なのだと思う。


・という謎の着地をし、今日の日記は終わります。各自、あたたかくして眠れ。

・さようなら

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