大きなのっぽの古時計

・私はNikeの筋トレアプリを使って時々筋トレをしている。そのアプリには自動でプランを組み立てる機能がある。私は先週の金曜日から 一週間に2回~3回の筋トレを6週間続けるプランを始めた。そして、昨日は3回目の筋トレがあったのだが、それがマジできつくて現在全身が筋肉痛である。強度を調整できるとプランの説明には書いてあったが、今の私は最低強度のプランであるらしくこれ以上下げることはできないそうだ。こう書くと私の筋力がとても少ないように思えるが、そうじゃない!マジできついのだ。とはいえ、自分の基準だけではそうとも言い切れないので、ほかの人にとってどのぐらいきついのかも知りたい。こんど妹にやらせてみようか。ちなみに「ザ・パワースタート」というトレーニング名でした。

・今日は全身筋肉痛であるのに加え風が強かったため、お散歩をした。楽しかったけれど、自転車を漕ぐ方がもっと楽しいと思った。最近、毎日入浴する習慣ができて生活がより向上したような気がする。

・流行り病が幅を利かせるようになってから、むしろ身体と精神に健康的な生活が送れるようになった。春休みの期間は何もしていない罪悪感があったり、生活のリズムができずに一日中スマホをいじったりしているうちに終わった。しかし、そのあと外に出て運動をはじめたり、早寝早起きを習慣づけたり、ゆっくり入浴するようになったりして調子が良くなった。日記を書き始めたことも良い影響を与えている。このようにいろいろなことができるようになったことで、良い習慣そのものも気分を高めてくれるし、やりたいことを実行できていることにより自己効力感が高まるのも相まって、今はかつてないほど精神が安定している。ゆるやかに多幸感があって、穏やかである。いまなら自転車のかごにポイ捨てされていても許せる気がする。

・職業を選ぶときって、その職業が携わる対象に自分が興味を持てたり努力できるものであるかということを重視しがちだけど、仕事のなかで対象を知っていくと否定的な感情も生まれるだろうし、あこがれや慈善的な気持ちのみで自分の生活の大部分の時間や労力を仕事に割くことは難しいと思う。

・そういうことを考えると、仕事って自分の生活のリズムに合うことが大切だよなと思う。生活のリズムというのは行動の規則正しさだけではなく、自分の性質とか適正にフィットしているということである。適性がない場合はどんなに努力してもうまくいかないし、仕事内容や職場の環境が自分の性質に合っていないと無駄に疲れる。仕事へのあこがれや貢献したいという思いだけではそこはどうにもならないし、逆にこれが満たされていれば職業が携わる対象へのこだわりはあまり重要ではないのだと思う。

・これを実感できる良い例が学校だと思う。学校では学力を向上するという大きな目標があったが、これを目的に学校に入学しようと考えた人はあまり多くはないと思う。大体の人はそれがあたりまえだし、ほかに方法もないから入学したに過ぎないと思う。というか、どちらかというと学力を向上させることは嫌いだし退屈な人も多いと思うので、それが積極的な目標として機能したかというと微妙だと思う。(そのうえで、好きな学校を選んで受験したかもしれないが、どの学校でも学力を向上させるという目的は変わらないので、「学校で学ぶか、学校に行かずにほかのことをするか」という選択肢があった人が少ないということだ)

・しかし、大体の人は学校でも満足していたと思う。それは自分と合う友達がいて(部活に所属している人もいたり)、決まった時間に黒板に向かい話を聞くというスタイルが自分に合うもしくは自分に負担がかからず、定期的な行事により達成感や新しい交友関係が生まれたことへの喜びがあるなどの学校生活のリズムが自分に合っていたからだと思う。

・逆に言うと、たくさんの人間がいるところが苦痛だったり、決まった時間に行動することが難しかったり、授業の間ずっと座れなかったり、行事が嫌いだったりする人には学校が不満だったと思う。それは学校のシステムだけでなく、自分に合う友達がいないなど、どの集団にもあてはまる要素からのこともある。

・どのみち、学校に満足するかそうでないかは学校が目指す目標というよりも、学校の環境やそこで求められている行動(職業でいうところの仕事内容)が自分に合うか合わないかが多いと思う。「いやいや、私は勉強が嫌いだから学校が嫌いなのですが、それは学校が持つ目標が嫌だからということにならないかな?」という人もいるかもしれない。しかしそれに関しても、机に長時間向かうことや一人で集中することが嫌いという、勉強に伴う行動が自分に合っていないということがいえると思う。それゆえに、勉強の目標だけ変わって、求められる能力が変化しなかったとしても、それは好き嫌いに全く関係がないと言えると思う。

・ここまで書いたが、高校とは違い大学になって好きな勉強をすることができるようになったら学校が好きになる場合もあるから、一概には言えないのかもしれないとも思った。もしそれが、「計算が嫌いで計算がなくなったから好き」ならば変わらず目標は関係ないと言えるかもしれないし、「求められる能力は変わらないけれど、学ぶ対象が変わったから好き」ならば目標が関係ないとか必ずしも言えなくなる。

・よくわからなくなってきたが、要するに、職業を選ぶときは崇高な目標に対するあこがれよりも、仕事内容や職場の環境と自分との適性を考えた方がよいような気がしてきたということである。まあこれは、一度も正社員になったことのない人間の憶測にすぎないからあまり気にしないでほしい。しかも、たまたまここ数日の自分の性質と今の生活があっているという思いから生まれた考えだから、ただの気まぐれ程度に考えてください。

・話は変わるが、大きなのっぽの古時計という曲の古時計はどのように止まったのかという問題について以前から考えている。わたしは今まで、古時計が止まった描写は、「偶然」おじいさんが死んだときに古時計の電池が切れて(もしくは壊れて)止まり、その偶然は実のところおじいさんに対する古時計の愛情や弔いの感情によって起こったということを表しているのだと思っていた。

・しかし、この曲自体が昔のものであり、また古時計ということからぜんまい時計なのではないかということに気がついた。その場合、古時計が動かなくなったのは、単純におじいさんが死んでぜんまいを回す人がいなくなったから動かなくなったということになる。もしこれだったらとても面白いなと思った。ほかの人はどっちの解釈をしているのかが気になり、私の家族に聞いてみたところ、両親はぜんまいの方を、弟と妹は電池の方で解釈をしていることが分かった。ふしぎだなあ~。同世代だとどちらの解釈の方が多いのかが気になる。

・さようなら~

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?