生活の過程

2020年6月7日
・今日はちゃんとしてないほうの日記です。だらーんとしているやつです。

・私は(少なくとも最近は)課題をしているときとちゃんとした文章を書くとき以外は脳みそが溶けており、ふわふわしている。だから、この文章をもし誰かがみていたとして、その人が私をとても頭の固くて近寄りがたい人間だと思っているのだとしたら、悲しいなと思う。ちゃんと私は、道端の猫にあいさつをするし、チューブ状のクリームが少なくなってきたらハサミで半分に切って使うし、豆苗は3回育てるし、レンチンのときやカップラーメンを作るときは最後の5~10秒はカットして食べるし、コメント欄をながめながらYouTubeを見る。

・自分の生活はもちろんわかるけれど、他人が生活している様子を具体的に思い浮かべることができない。自分が生きているのと同時に、自分の知るすべての生存者が生活していることを考えるとスゲー!って思う。誰しもが1度は想像したことはあると思うが、自分が好きな芸能人がいま自分と同じ世界線で生きていると想像すると、信じがたいような気持ちになると思う。でもそれだけじゃなくて、友達や先生や、果てはこの前電車に乗ったときにおなじ車両に居合わせた人のほとんどが、いまこの瞬間も思い思いの生活をしているということを考えると、スケールが大きすぎて逆によくわからなくなる。

・他人について自分が何も知らないということを実感するたびに、不安になる。現在は家族とともに生活しているが、家族は他人であり、もしかしたら友達よりも他人なのではないのかと感じている。弟は現在サッカー部のキャプテンであり、妹は中学三年生まで演劇部で主役をやっていた(現在は高1である。)だが、私は弟がサッカーをしていたりキャプテンとしてサッカー部で活躍している姿を見たことが無い。妹に関しても演劇の練習を見たことがないばかりか、本番の劇すら見たことが無い。父と母に関しても仕事をしている姿を見たことが無い。そういうことを考えると、私はいかに家族の主要な活動を知らないかを思い知る。確かに私は家族の生活感については知っている。生活感を「素」であると考えて、それを知ることがより近い関係の証なのだとしたら、たしかに私と家族との関係が深いといえるのかもしれない。でも、私は人間が自分として表に見せている姿こそがその人といえるのではないかと思っている。それに沿って考えると、表を知りえない家族の関係は誰よりも他人であるような気がするのだ。

・……なんかめんどくなったので、書くのやめまーす。今日はちゃんとしてない日記だからいいよな。ところで、私の弟と妹すごくない?2人と同じ血が自分に流れているとは思えない。うらやましい。今年は弟が高3で、ぜひともサッカーの試合を見に行きたかったんだけど、流行り病のせいでできそうにない。本当に悲しいな。去年のうちに見に行っておけばよかった。

・特に書くことがないな。今日は布団を干したのと、掃除機をかけたのと(ロボット掃除機だけど)課題を終わらせたので気分がいい。なんか日記っぽいね。

・あとキャンプ行きたいから、流行り病が鳴りを潜めたらだれか一緒に行こうぜ。テント立てて、料理つくって、焚火をするんだ~

・さようなら

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