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国をつくる

2023年10月23日

・詳しいことは省くけれど、昨日の夜、どんぐりの売人とお会いしてどんぐりを1粒1000円で買った。ちなみに、どんぐりというのは薬物などのやばいものの隠語ではなく、純粋などんぐりである。中身が生で食べられるどんぐりだ。どんぐりの売人が一番芸術点が高いとおっしゃっていたどんぐりを1000円で買ったのだが、帰りにどんぐりを割って食べようとしたら、虫に食われていたため食べられなかった。お前、1000円で買ったんだけれどね、と思いながら捨てた。ちなみに、お会いしている最中にどんぐりの試食をさせてもらっていたので、どんぐりの味を知ることはできた。よかった。

・どんぐりの売人とはいろいろな話をした。

・まず、自分で自分の人生を決めて、その通りに生きることをしたいと思ったときに、それでも人にどうしたらいいのか尋ねてしまうという話をした。「色々な方と会う中で、このひとは自分で自分の人生を考えた方がいいなと思うひとと、このひとには何かを伝えたいと思うひとには何か違いがありますか?」と私は尋ねた。そうしたら、「自分が言いたいと思うかがすべて。たとえ相手が自分とかなり似たような人生を歩んでいて、これをしたら相手の人生がいい感じになるなと思う場合であっても、言いたくなかったら言わない。」とおっしゃった。その時はそのまま流してしまったけれど、後々振り返ってみたら、結局のところ生きるのは自分で、アドバイスをもらうかもらわないかというのは本当に些細な問題だと思った。他者からアドバイスをもらったとして、その通りに生きる時間のすべては私に帰ってくるのだから、スタート地点の風向きがどうだったかというのは自分の人生を語るうえで本当にごくわずかなことだと思った。だからこそアドバイスがほしいと思ったらもらおうとしてもいいし、もらおうとした結果「自分で考えろ」というある種べつのアドバイスをもらうことになってもいいのだと思った。アドバイスをもらう行為自体が全然大丈夫と言うよりは、その行為だけが特別なものだと考えるのではなくコミュニケーションの一部分であると捉えるのがいいと思った。相手も話したくなかったら話さないし、自身の悦に浸るために話すものかもしれないし、「自分で考えろ」と言ったときの気持ちよさを優先するかもしれない。私も自分の人生を相手に尋ねるという身勝手さがあり、相手もそれ相応に身勝手に答えるのであって、それはまさしく普通のコミュニケーションだと思った。人生の大部分は定めた方向性の中身(自分が体験する1秒1秒の蓄積)にあって、方向性自体ではない。例えば「働かずに毎日ネットだけして生きている」人がいたとして、人生と呼べるのはひとことで表せる方向性ではなくて、その人がひとことで表せる符号の中で実際に家やネット上の世界で過ごしている膨大な時間の中で得ている実感だ。誰かのアドバイス通りに生きたとしても、それは誰かの人生を生きたことにはならない。そのアドバイスを採用しようと思ったのは自分の選択だし、アドバイス通りに生きて得られる実感はその人固有のものだ。などということを思った。

・次に、自分がやりたいと思ったことをやろうとしてもうまくいかなかったという最近のことについて話した。そうしたら、どんぐりの売人はホームランを狙うのではなく継続することにも喜びがあるとおっしゃった。私はこれを聞いて、少ない問答でここまでクリティカルな答えを出すことができるのはやばすぎるなと思った。今まで数か月間、継続することの苦しさと向き合ってきたのだけれど、いざ継続が完了した時にそこから完全に離れてしまったことは何の学びも生かせていないのかもしれないと、私はうっすらと思っていた。私は継続が大の苦手だ。私のなかにある実感や、それに伴うやりたいことは、おそらくもうふとした瞬間のインスピレーションからわかるものではないのだと思う。もしそれで気がつけるのならば、どこかのタイミングですでに気がついている。だとしたら、継続的な動作によって何かを深めていくことが自分には必要だと思った。でも継続は苦手だ。本当にやりたくないけれど、多分それは私に必要なことだと思う。何を継続するのかについてはもうちょっと考えてみたい。


・そして、どの話の流れでここに行き着いたのか覚えていないけれど、どんぐりの売人は「明るく(ここの表現を忘れた)生きているだけではなくて、常に静かな怒りがあることが大切だと思う。明るいだけだと浮つく。」とおっしゃっていた。私が驚いたのはここからなのだが、どんぐりの売人は「自分にとっての静かな怒りのコアにあるのは『国をつくる』という言葉だと思った。」とおっしゃった。私はうまく言葉にできないけれど、「国をつくる」は自分の中にもあるということ、そして静かな怒りと国をつくるには確かに関係性があるということを思った。より自分のほうに引き寄せて話を展開すると、私は自分のやりたいことを「国をつくる」という言葉ほどのスケールの大きさで捉えていなかったが、「(自分のために)○○をしたい」という言葉で捉えていたものたちは、本当はより大きな範囲のもののためにやりたいことなのではないかと思った。上手く書けている感じがない。私は以前、自分の意識にのぼる形で「国をつくりたい」と思っていたことがあった。しかし、それは気がついたら自分に収束する欲の形で捉えるようになってしまった。それは例えば、全世界のために○○したいという風に思うときに、全世界という言葉におしつけがましさを感じるからだ。そして、自分以外の人間を自分のものさしで測れると思い込むような感じも抱いたからだ。でも、本当に幸せになろうと思ったときに、自分一人だけのビジョンが浮かぶことに私は違和感を覚えた。私は幸せを思い描くときに漠然とだれかが自分の周りにいる感じがあるのだが、自分を含めた空気感をいい感じにすることと「国をつくる」はかなり近いものがある気がした。上手く書けた感じがないけれど、そういうことを思った。

・いろいろ書いたけれど、実際のところ私は、どんぐりの売人と会ったこと自体に一番救われたと思う。明るく生きることと静かな怒りがあるとしたら、私は静かな怒りに寄り過ぎていたと思う。常に怒りを燃やさないと周りに取り込まれてしまうという状態で生きていると、自分が燃やしている怒りが本当に正しいものなのかわからなくなるし、何よりなにも楽しくなくなる。どんぐりの売人とお会いすることになって私は露骨に元気になった。元気になっただけではなくて、明るく生きるための回路が繋がった感じがした。どんぐりは1個100円だったのだが、後々の方にプレッシャーをかけるために1000円で買うと売人に伝えたときの私は、何かを取り戻していたと思う。どんぐりの売人は、深刻になるのは簡単だと言った。その言葉は何度か聞いたことがあるけれど、いざちゃんと人に会って救われた私は、その言葉の重みを感じた。周りには信頼できない人しかいないと私は思っていたが、行動を制限されていない以上、新しく誰かと出会うことは容易だと思った。働いてもいないのだから、なんだってできる。悲観的な側面ばかりを見て落ち込んでいたことを、今回の出会いによって強く感じた。もう、日雇いバイトができるから金を稼げる。どこにだっていける。あとは何を望むかだと思った。


・今日はポトフを作った。フォーを入れて食べた。おいしかった。瞑想もした。やっぱり心が揺れ動いているから連続して10分も瞑想ができなくなっていた。

・国をつくるという言葉は、一見傲慢なように見えて、実際は自分だけで幸せにならないという優しさが含まれていると思う。「国をつくる」のスケールで自分の命の行方を考えられるようになりたい。

・さようなら

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