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:(

2024年5月8日
・こんにちは。元気でしょうか。私は元気じゃないです。元気になりたいというよりも、もう殺してほしいです。何をどう書いたらいいのかわからなくて、全然かけませんでした。それだけじゃないです。それだけじゃない、ということがあらゆることについて考えたときに浮かび上がって、いろいろ考えているうちにどんどん追い詰められていったんですね。追いつめられていって、でも誰にも何も言えなかった。「頑張りたいけれどどう頑張ったらいいのかわからない」ということを言える相手は何名か思い当たって、そのような相手に相談したら元気にはなります。でもその手法はあくまでも、苦しみを塗り替えたいという、ある種の気力がまだ残っているときにしか使えません。もう本当に苦しみで動けない時に、ただ弱音を吐く相手というのが私には思いつかないです。弱音を吐くということを私はずっとどこかで馬鹿にしていたし、コミュニティ内で全員がある程度抱えているであろう苦しみを吐き出し合って肯定して明日も頑張るみたいな、そういうコミュニケーションをすることに、そういうコミュニケーションでお茶を濁さなければ生きられない状態に、絶望していました。もちろんそれは今でも思っているのですが、それでも、ただ弱音を吐きだして慰められるという状態そのものは必要なものであったと思います。私は相手に弱音を吐き出される率が比較的高いです。私が相手の弱音を聞くことによってその相手が少しでも穏やかに生活できるのであればそれはうれしいと思います。「私に余裕があったら、いつでも聞くから言ってね、何度でも連絡ちょうだいね」と伝えることが多いですが、当の私はマジで誰にも言わないっていうね。それは、ただ単に相手の迷惑になるかなという懸念だけではなくて、自分の言葉はどうせ伝わらないという風に思っているからです。伝わらなかったらかなり落ち込むというか、絶望するんですよね。伝わらなかったら絶望するし、そもそも私の中から言葉が出ずに曖昧に終わることも考えられるわけです。伝わらないとか、言葉が出ないとかすべて包含して、救われなかったということにかなりダメージを受けます。すでに苦しみでダメージを受けているところに、この人に連絡して会っても救われなかったということで追加でダメージを受けると、もう耐えられないのです。

・ていうか、「救われなかった」っていうのは、つまるところ相手に救われたいということであり、それってマジでキモいと思います。そんな自分本位の感情を振りかざして大切な人に会ったり連絡をとったりするのは本当にゴミなので、やりたくないなと思っています。

・自分が考えていることに殺されかけている。3月下旬ぐらいから調子が悪かったんですよね。ずっと苦しかった。4月中旬ぐらいまではかなり苦しんでいつつも気力があったので、この苦しみを抱えたまま仕事をしたり部屋の中にひとりで居る状態は耐えられないと思って、動けたのですね。まあそれは人に会ったり遠出をしたりする状態を作って、その間はアドレナリンが出て調子がいいように感じるということだったのですが。その間、自分の心身に余裕がないことは感じていたし、いずれツケが回ってくるだろうなとは思っていたけれど、それでも苦しみから逃れるためには動くしかなかった。そして、人に会うことによって苦しみへの理解が深まったり、生活の指針が得られたりもしました。

・4月中旬からは本当に動けなくなった。生活の指針が得られたものの、その通りには全くいかなかった。このように生活を送るっていう、動作の話だけではなくて、心の持ちようも全くうまくいかなかった。正しくありたいのに正しくあれないのは辛かった。正しくなくていいじゃんとか、そういう問題ではない。自分が自分のままいようとすると加害者になるという状態が出来上がっており、どうやって自分の中の感情をなだめるか、昇華するか、転化するか、殺すかということをひたすら考えていた。自分の中の本当にやるべきことは何にもやれていないのに、人のことばかりが気になる。そして、その「気になる」は本当にその人のことが気になっているのではなく、ただ自分の欠乏感を埋めるための感情である。この感情は正しくないが、かといってもうどこにも進めないではないかということを感じた。

・誰かをとても好きであると思うとき、その気持ちを抱いている人は自分の気持ちになにか美しさを感じている。その気持ちによって花や風景が綺麗に見えたりする。端的に言ってしまえば、愛している側にとっての愛は美化される。でも、愛されている側にとって押し付けられる愛そのものはよいものだろうか。例えば、自分は愛していない人から愛される時、それはなんだかよい気分をもたらすのだろうか。ということを、私は自分の親と私の関係で考えた。私は親からの愛に驚くほど冷酷であることに気がついた。過去に親からの愛によって身動きがとりにくかったと感じている部分があるので、その点にはうんざりしているが、それを除いたときに私は向けられている愛そのものに何の感情も抱いていなかった。そうか、私が美化しているこれは相手にとっては本当に何でもないし、その場合、私が行動に移したら単純にそれは加害なのだなということが腑に落ちた。

・対人関係以外にも苦しみはあった。3月下旬ごろから元気がなくなって、仕事へのやる気が全くなくなった。言語化したいと思っていたことも全く進められなかった。結局自分は何にもできないじゃないかと思った。人生のステージをどんどん上に上に進められなければ、今の自分の生活のままじゃないかと思った。今の自分の生活は通過点として扱っていたから許容できていた。何が不満なのかうまく言語化できないけれど、とにかくこのままでは嫌だと思った。でも、今の自分の生活では満足できないとか、このままではだめなんじゃないかみたいな焦りがあることとか、そのような心持ちであることも許せなかった。先のことを考えて焦るとか、先に進みたいという思いがある状態と今生活できていることに対して幸福感を抱ける状態が両立できていないこととか、そういうのは「未熟な人間」が陥る状態であって、私はそこから抜け出さなければいけないと思っていた。

・ふさわしいやる気は持てず、未熟な感情が消すこともできずに募っていく。考えれば考えるほどにドツボにはまっていく。ふとした瞬間にさみしいと思うが、そのさみしいは正しくない。他者を使って解消しようとしているものは、実際は自分が一歩一歩やる気を出して進めなければならないことは分かっていた。でもできない。葛藤が続いた。やらなければと思うほどに動けなくて、昨日の休日はスマホを触って疲れたら眠ってを繰り返しているうちに終わった。今日も休みだった。さすがに少しは動けた。月に1回の受診がそろそろなので、昨日病院休みだったし今日行こうと思って一応ホームページを見たら、昨日がやっていて今日は休みだった。この時点でかなり精神が終わっていた。病院のホームページを見るためにスマホを見たらスマホが置けなくなって2時間ぐらい触ってから、言語化をするために図書館に行ったが、図書館でもスマホしか触れなかった。なんかもう嫌になったので、誰もフォロワーがいないTwitterのアカウントで「死にます!お疲れさまでした!」という虚言をツイートしてからnoteの投稿をすべて下書きに戻そうとしたら、すでにある60個ぐらいの下書きと混ざるため下書きに戻せなかった。なんかもう本当になんにもうまくいかねえなと思いながら、ちょっと前にツイートした「死にます!お疲れさまでした!」を削除して、ネットサーフィンをしてから図書館を後にした。言語化も一応試みたが、死にたいぐらいしか感想が浮かばなかったので、諦めた。そんなこんなしていたらもう本当に限界を迎えて、すべての感情がもういらないなってなった。誰かを好きに思う気持ちはいかなるものもすべて自分の欠乏感を埋めるためのものだし、誰かに助けを求めたいなという思いもエゴだし、向上したいという思いを持っても苦しむだけだし、どのみち苦しみがあるし、美味しいものを食べてもすぐに忘れるし、やりたくないという思いは殺せばそのままでいられるし。喜びも、怒りも、やる気も、感情を燃やすことに意味はなんにもないなと思った。一ミリも興味がないマリオカート実況を横になりながらYouTubeで見ていた。

・気がついたら眠っていた。マリオカートを見ていたはずのスマホを覗いたら、1分前にある方からラインが届いていた。なんか笑ってしまった。この状態で、今くるんだっていう。何も感じなかった。何も感じなくてよかったと思う。さっき捨てたんですよ全部、せめて1日前ならよかったんですけれどね。あーまじ全部ゴミだなと思いながら、カフェオレを買いに外に行った。カフェオレを飲みたかった。でも、カフェオレごときでもカフェインにやられて眠れなくなることがあるので、罪を若干滅ぼす形で紅茶オレを買った。紅茶オレを秒で啜ってから、なんか手作りのハンバーグが食べたくなって肉がおいしいスーパーに行った。ひき肉安いかなと思いつつ野菜コーナーを通り過ぎようとしたら、でかいサラダがあった。でかいサラダというより、めちゃくちゃでかいサラダである。風呂桶サイズの容器にぎちぎちにレタスが詰まっていて、申し訳程度にミニトマトがいくつか入っている。いや、このサイズはパーティーでもギリギリ食わないだろと思いながら、流れるように手に取っていた。めちゃくちゃでかいサラダを買わない理由は無いから。その流れで美味しいしゃぶしゃぶ肉を手に取って、そのままレジに向かった。袋を買わなかったら、当然のごとくサラダは小さい鞄には全く収まらなかったので、手にもって帰った。めちゃくちゃ通行人の視線を感じた。途中で雨が降り始めたので、サラダで頭を覆いながら帰った。そんなことある?

・家に帰ってサラダの撮影会をしてから、取り分けてみたが、本当に減らない。なんかもう、この時点で自分は完全に元気になっていた。大量のサラダごときで自分は元気になるのかと思うと滑稽だった。サラダはしゃきしゃきでおいしかった。肉は冷しゃぶにしてサラダに乗せて食べたが、この肉が本当においしかった。あのスーパーの肉は高いけれどマジで品質がいい。死ぬほど食べたがサラダは半分しか減らなかった。でも、半分まで減らしたのは本当にすごいと思っている。あのサラダを買ってよかった。

・まあ、もうサラダの効果はほとんど切れているのですが。虚無に戻りつつもかろうじてサラダの効果でこうして文章を書けている。サラダの効果が切れないうちに、サラダを食べながら先ほど書いた例のラインに返信をしたが、サラダの効果が切れ始めたらなんかもうどうでもよくなったのでラインの送信を取り消した。

・感情はいらないし、何も信じたくない。生きていたくない。誰かのせいでこうなったわけではない。私が要らない感情を抱いたのがすべての元凶だったのだ。まあ、どうせ感情は殺しきれない。そんなことは分かっている。だから、しばらくは死んだように生きていようと思う。仕事にさえ行ければ私は存在し続ける。そこまでして私という名前の人間を存在させることの意味が分からないけれど。私が私を必要としていないのだから、この世界で私が存在していることの意味はない。意味はないけれど、死ねないから生きるということだね。

・疲れていない。自らの体感に疲れたという言葉で意味付けることも不要だ。視覚や聴覚を含めた感覚がただこの世を映しているだけで、私が私の身体を動かせているだけで、なんか時間になったら特定の行動をするだけで、本当にただそれだけ。それだけでいい。

・あ。そういえば5月初めぐらいから死にたい気持ちが戻った。まあね、しょうがないね。なんかもう本当にしんどかったから。なんでなんだろう。なんでとか、そういうことを考えたくない。

・まあいずれ戻るよ。そのままでいるのって結構しんどいから。そうしたらまたよろしくお願いいたします。

・さようなら

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