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命たるもの

2023年10月7日

・先ほど、踊りの舞台を鑑賞させていただきました。すごかったです。椅子に座って鑑賞していたのですが、時折迫力で、仙骨が数ミリ後ろに動く感じがありました。終わった後はしばらく動けなかったです。

・はじめは、様々な命のひたむきさをどこかパノラマのように感じていたのですが、終わってからふと、自分も命なのだと気がついたときに、踊りの瞬間瞬間のバラバラな記憶に一本の線が通ったような気がしました。海や風や生命の中に渦巻くエネルギーのようなものと通ずるものが私にあると体感した時、踏み出す一歩は命にふさわしいものだと思いました。命の中に渦巻くものは、輝きでもあり、おどろおどろしさでもあり、静けさでもあり、激しさでもあるのだと思います。何の言葉を当てはめてもいい気がするけれど、確実に命にふさわしいもの、逆にそうではないものがあるような気がしました。少なくとも、電車に乗ってスマホを眺めていることは命にふさわしくない気がします。というわけで先ほどスマホをタイムロッキングコンテナにぶち込んで、24時間監禁しました。明日の22時ごろに封印が解き放たれます。

・ところで、言葉が優位な方ならわかると思うのですが、踊りの舞台や、それに近しいものを見るとき、いけないと分かっていながらも分析から入ってしまうと思います。もしかしたら、それは半分拒絶を含んでいるのかもしれません。子どもの頃、感動する映像を見ながら泣いている人を横目に、そうはならないぞと半分逆張りする形で映像と自分の間に意図的に壁を作ったときのように、感情的なものを見たときに、そこに自分が入り込むことを拒絶する心理は働いていたような気がします。

・私は、おそらくまだ今日の踊りを受け取れる器を備えていなかったのだと思います。そうです、私は鑑賞しながら器についても考えていました。私は最近、受け取る難しさについて考えることが多いです。目の前の相手や本の中の言葉から気づきを得るとき、それを受け取れるための準備が整ったから気づきを得られるのだと思います。逆に、今の瞬間ではどんなに素晴らしい言葉でも自分の準備が整っていなければ気がつかずに素通りすることもあり得るということです。そして、私はおそらく今日受け取れていない思いがあることに対して、もったいないな、悲しいなと思いました。でも、多分すべてがそういうことの連続で、気づきの外側に世界があることを忘れた瞬間にいろいろと終わるのだと思います。


・今日は、踊りの舞台で、私の文章を読んでくださっている方に出会いました。チキってめちゃくちゃ声が小さくなってしまいました。あと、滋賀県にお住まいとのことだったので、びわ湖くんを知っているかと尋ねたところ、ご存じではなかったので、死亡しました。滋賀県民はほとんど知っているのかなと思っていたのですが、よくよく考えたらあんなアウトローな奴がそこまでの普及率があったらとっくに滅ぼされているだろうなと思いました。もし現地に住んでいたとしたら、「滋賀県=びわ湖くん」という認識はかなり屈辱的だと思うので、その認識は改めた方がいいなと思いました。大丈夫、ぽんぽことピーナッツくんがいるから……。

・自分が踊りを見る側になったり、文章を読まれている側になったりして思ったのですが、優れた表現者がいるとしたら優れた受け取り手も確実に存在するだろうということです。優れた受け取り手というよりも、その表現に対して適合する形の器を持っている受け取り手という感じかもしれません。どちらが優れているかというよりも、奇跡的なマッチングが起こった時、表現者も受け取り手も救われた気持ちになるのだろうなと思いました。文章を書いていて思うのですが、表現をする人は誰しも、10人に50点をもらうよりも、9人からは見向きもされなかったとしても、1人から1億点もらうほうが何倍も嬉しいのだと思います。「自分が伝わった!」「こんな人が生きているなんて思わなかった!」とお互いが思えるような出会いは単に表現者側が努力をしたというだけにはとどまらないものがあると思います。

・なにがいいたいのかぼんやりとしてきたので、一度少し話をそらそうと思います。私はコミュニケーションについても最近考えます。みんなでワイワイするコミュニケーション、美味しいものなどを分かち合うコミュニケーション、自分と相手のコアに近い部分をさらけ出すコミュニケーション、いろいろあるけれど、浅いものは物足りなくて、深いものは相手と完璧に適合できず頓挫する感じがあります。より率直に言うと、コミュニケーションがうまくいかない感覚が最近はありました。しかし、表現者と受け取り手の間柄は一種のコミュニケーションであって、その繋がり方は結構理想に近いのではないかと思いました。深いけれど適合しているから、作品を介するうちはお互いに喜びを感じられるということです。なにがいいたいのかというと、読んでくださって、その感想を伝えてくださることがどれほどありがたいのかということです。奇跡のぴったり度でなくても、受け取り手がいるだけでコミュニケーションは発生していて、そしてそれはお互いに居心地のいいコミュニケーションの一形態なのだと思いました。


・今日は濃い一日でした。楽しかったです。舞台が終わった後のアフタートーク的な時間で、隅っこに座って隠れていてすみませんでした。動いたり話したり表情を変えたりするのが億劫だったので隅っこで待機していました。

・そして、踊っていらっしゃった方を含め、7月序盤の一番しんどかった時期にお世話になった方々にお会いして感謝を伝えることができて本当によかったです。あの時は本当にお世話になりました!おかげさまで生きております!

・以上です。命たるもの!

・さようなら

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