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肉まんは作る時代

2023年10月24日

・なんでこうもずっとだるいのだろうと思う。1日のほとんどを寝て過ごしている。ただ食欲は回復してきた。ようやく体が正常に休もうとしている感じがしている。早く動き出したい、考え出したいと思うけれど、焦らず様子を見ていきたい。

・眠っていない貴重な時間を使い、肉まんを作った。作るのはそれほど難しくないけれど、出来上がりは既製品の5倍ぐらいおいしい。私が作ったレシピは551みたいな肉まんっていうのを売りにしていたけれど、記憶が間違っていなければかなり近い完成度だと思った。


・今日は診察とカウンセリングがあった。久しぶりにカウンセリングに違和感を覚えた日だった。上手く言えないけれど、私が以前福祉職としてわずかながら働いていた職場で違和感を感じて辞めたそれで、自分もコントロールされそうになっているみたいなことを感じる。「支援」では「ストレングスを大切に」とか「本人主体の」とかいくらでも言うけれど、結局のところ常識、世間体から逃れられない圧力のようなものが生じていると思う。なんか、変なところでふんわりとしていて、変なところでしめつけられている感覚がある。それは、支援者としてではなく一人の友人だったら言うだろうということと、支援者でなかったら余計なお世話だろうということがあって、その直感はそもそも人間と接するうえで割と間違えていない気がする。支援者としてあるべき姿とかは当然働いていないのだから全く分からないけれど、自分が支援を受ける立場として気持ち悪いと思うことは結構ある。

・見通しが立たないこと、筋が通っていないことを医者もカウンセラーも極度に嫌う。そしてその考え方に直面するたびに早く逃げなければと思うのは早計な判断だと思う。心の波打つ表面だけを見てすべて判断するのではなく、コアの部分になにがあるのかを見通すことができればいいのにと思う。そして、コアを見通すことと継続することは多分繋がっている。ふとした思い付きでコアまで見通すことはできない。何かを継続しなければならない。でも、それはなんだろう。冒頭に戻るけれど、身体がだるくて仕方がないときにコアを見通すために継続することを考えきれない自分を焦らせる必要はないと思う。それでも、早く進みたいと思う気持ちは本当だ。

・以前、心の表面の波打ちを鎮めて内側を見通す方法として、瞑想、文章化、掃除、ということを言われた。あれは本当なのだろうか。自分は3か月それをやってきたけれど、あんまりピンとこなかった。ピンとはこないけれど、それをやっていたときには当たり前にあった落ち着きが今は失われていると思う。まずは何も疑わずにそれをやるのもありなのかもしれない。

・3か月過去を振り返ったのに自分は失敗したということが、結構堪えている。3か月の日々から得た学びをすべて手放して先に進もうとしたからこうなったということがなんとなくわかっているけれど、それでは何を持ったまま先に進むのがベストなのかわからない。

・学べ。もっと学べと思う。生きている自分がいることを強く感じている。前々回の投稿とそれより前のいくつかの投稿では、結構後ろ向きになっていたと思うけれど、実はいずれ前を向けるであろう自分を、同時に強く感じていた。前を向けるというか、生きている限り後ろ向きになっていることを継続することもできないという実感があった。自分の内側に潜り込んでいる感覚では恐怖や焦りを感じているが、より外側から自分を眺めたときに、そこにはもっと生きろという気持ちがある。いま自分は生きている。それは高校生や大学生の時には無かった実感だと思う。肩書がなくなると生の実感が強烈に湧く。自分の一つ一つの考え、一挙手一投足がそのまま人生を構築する。そのヒリつきは、自分をめちゃくちゃに焦らせたり絶望させたりすることもあるけれど、それでもやりたいと思う瞬間もある。もっとやれ、もっとやれ。布団に倒れ込んだまま動けない日の絶望も、立ち上がろうと思う気持ちも、すべて傍から見たら強烈に生きていると思う。他人の人生に口を出す余裕なんてなくていいから、自分の人生にちゃんと食らって学んでいきたい。

・さようなら

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