普通にしんどい

2023年5月10日~12日
・今は成田空港に居る。これから飛行機で奄美大島に向かう。奄美大島は大体南北に縦長だ。北側に飛行機で降りたら、3時間かけて南の端までバスに乗る。その後フェリーで20分かけて加計呂麻島に着く。加計呂麻島にあるゲストハウスで5月末まで働きつつお世話になる。
・加計呂麻島にはコンビニがないらしい。あと、電波も悪いらしい。この並びで書いていいのか分からないけれど、イヤホンを忘れた。どこかで落としたのか、はたまた入れ忘れたのか分からない。ずっとリュックのポケットに入っていることを信じて疑っていなかったし、そもそもそこから取り出して別の場所に置いた記憶がないので本当に所在が分からない。イヤホンを忘れたのは本当にショックだ。多分なにを忘れてもある程度ショックを受けたと思うけれど、イヤホン以外の物は身体的にダメージを受ける。でも、イヤホンを忘れたら精神的な豊かさを失う気がする。これから2時間40分飛行機に乗る。そして3時間バスに乗る。その時イヤホンが無ければ多分退屈だ。イヤホンは内側に閉じこもるために必要な道具だ。イヤホンを忘れたことに気がついてすぐに、近くで20分ぐらい子供がギャン泣きした。早速洗礼を受けた。こういう時に内側に閉じこもることで精神の安定を保ってきた。イヤホンがあるのとないのとでは旅の性質がだいぶ変わってくる気がする。先週は東京から京都、福岡、宮崎に動き回っていたが、手元にイヤホンがあった。どの場所でも人に会っただけで観光を1度もせず、移動の際には音楽を聴くか寝るかしかしていなかったから、人に会う以外の時は内側に籠っていた。そうすると、違う世界の中にいる感じが薄まって、懐かしさに近い感傷に浸りながら、悪い意味では真に周りに目を向けることなく旅が終わった。だから、イヤホンがないことはとても衝撃的だし、それによりストレスを受ける部分は確実にあるけれど、この旅においてはイヤホンは無くて良かったような気もする。心が躍ることも、安らぐことも、荒むことも、すべて受け止めたい。

・今は飛行機の中だ。空を飛んでいる。空を飛ぶのは本当にすごいと思う。離陸のときは、人間の努力の歴史を感じてめちゃくちゃ感動した。人間は空を飛べる、しかも鉄の塊で空を飛べるらしい。本当にすごい。理屈が分からない。先日の福岡→東京の飛行機でも、離着陸で感動した。私が飛行機の離着陸で泣く人間だとは思わなかった。以前は多分そうじゃなかったけれど、今は感受性が高まっているのを感じる。1年前にも外界への心の壁が極端に薄まって、すべてのものが心を揺さぶるような感覚がある瞬間があった。世界がガラッと変わるのは、たくさんの感動を得るのと同時に、足元がおぼつかないような、何を信じればいいのか分からなくなるような感覚になることでもある。1日前の感覚をすべて否定したくなるような不安定感があって、怖くなったり、神経が研ぎ澄まされたりする。余裕を持って、目を和ませる感じで世界に接したいのに、和みとは裏腹に緊張感にも近い気分の高まりを持ってしか世界に接することができないことはさみしい。余裕を持ちたい。ふかふかのベッドに好きなだけ眠れる余裕とか、眠さがなくなって文章をゆっくりかける余裕とかがほしい。もっと今の自分がほしい余裕を書こうとしたけれど、あまりなかった。でも、何度も環境や周りの人が変わることは自分にとって辛いのかもしれないと思う。ずっとここに居てもいいし、ここに居たいと思える場所があったら安心できるのかもしれない。それを探すために今動いていることは分かっていても、今の流れに乗り切れないというか、時間がとまって何もないところで眠りたいと思うことがある。心がついていかないし、体はもっとついていかない。多分、その環境にいる大多数の人はその環境に適応できたとしても、数名にとっては本当に耐えられないということは、思ったよりもたくさんあるのだと思う。今私は飛行機に乗っているけれど、飛行機に乗ることが耐えられない人もいると思う。この旅は誰かにとっては余裕かもしれないけれど、私にとってはどうなんだろうと思う。いつか不意にすべてが無理になってしまいそうで怖い。でも、元の環境に戻ることもあり得ない。もし自分が進むに値せず、家に戻って布団の中に閉じこもったとき、多分本当に絶望するのだろうなと思う。こんなことを考えているのだから、今は精神状態はあまり良くないのだと思う。でもまあ、新しい環境に飛び込むとき、いつだってわくわくする気持ちよりも不安の方が大きかったけれど、今までの人生の中で後悔したことは1度もないから、こんな感じでも割とどうにかなるのだろうと思う。

・昨日の昼から今日の朝まで、実家に泊まった。ふかふかの布団でずっと眠れて安心した。炊飯器の中にご飯があることにも安心したし、湯船に浸かれることにも安心した。正直家族に未練はなかったけれど、家の設備が恋しすぎて、実際に家の中にいると、どこにも行きたくなくなった。多分、疲れも出てきて動くのがおっくうな気持ちだったことも込みで、空港に行くために立ち上がるのがしんどかった。でも、最終的に外に出ることができた。まだ自分は動けるのだと思って、それに安心した。
・朝起きたとき、隣に寝ていた母が目を覚ました。母の背後にある窓からは光が差し込んでいた。母は布団にくるまりながら、そばで寝ていた猫に挨拶をしながらその猫を撫でていた。動き回っているだけでは得られない光と温もりがそこにあった。両親は、この温もりを守っているのだと思ったら、それはとても尊いことだと思った。そのとき私は、焦りや不安、緊張感を抱えながら、なぜそこまでしてこの家を出たいのかと本気で思った。光も、温もりも、すべてここにあるのに、何を外に求めるのだろうと思った。でも、この世の家の数の分だけ光と温もりがあるのなら、この場所から見えるものは本当にちっぽけなのだと思った。世界が広いと知ることは孤独感や不安感をもたらすこともあると思うけれど、それでも私が生きていくためには必要だし、なにより生きているうちに知りたいという気持ちがあることを感じた。

・動き回ることを決めてから、まず初めにものに対する概念がぶっ壊れた。それまでは洋服でも消耗品でも、家のストックから出すか、もしくは買ったものを家に一度ストックしてから持っていくかのどっちかだった。だから、初めはリュックの中にたくさんストックしようとした。しかしすぐに、必要になったら買えばいいことに気がついた。必要になった時、すぐに手元に来る保障がないことが初めはとても不安だったけれど、動いていくごとに世界に対しての信頼感が徐々に増して、大丈夫だと思えるようになりつつある。まだ全然不安だけれど、それは多分これからどうにかなっていくのだと思う。


・宮崎に行ったことを書こうと思う。宮崎には、あるゲストハウスに泊まるために行った。そのゲストハウスには自称魔法使いが住んでいる。めんどくさいのですべての説明を省くけれど、私も彼を魔法使いだと思う。すごく素敵な人生を歩んでいる方だと思った。
・魔法使いは占いもできるので、占ってもらった。占い以外にも話もした。そこでいろいろなことを思った。

・まず、自分は生きることにおいて神経質だと思った。自分にとってはこの生き方がデフォルトだから、この生き方にどのような傾向があって、ほかにどういう生き方があるのかは想像つかなかったけれど、もっと自由になれる可能性があると思った。具体的に言うと、まずやりたいこととか快適だと思うことを四六時中やる必要はないことが分かった。私は、充実している状態や、不快な状態がない状態にならなければいけないと思っていた。その状態になるために不快を感じているのが今の状態で、それは発展途上だから早々と抜け出さなくてはいけないと思っていた。しかし、そんなことは無いのだと思った。やりたいことを追い求める生活もアリだけれど、やりたくないことを避けるだけの生活もアリで、寝具や周りの環境が不十分で快眠できない夜があることもすべてアリだということを感じた。お金がなくなってはいけないとか、いい宿に泊まらなければいけないとか、そういう考え方は幅の狭さから来ていて、最高も最悪も体感することで、幅が広がってどこでも生きていけるという気持ちになれるよと教えてもらった。生きていけることと最高な状態であることは違うけれど、100点ではなくても生きていければ全然かまわないのだと感じた。
・そして、他人の捉え方も変わったと思う。それぞれの人には生命力のようなもの、具体的に言うならば自らの道を進もうとする力があって、それを信じたいと思うようになった。道を進むにあたって、耐えるときもあれば、変わろうとするときもあることを知った。たとえその人を今この瞬間に自分が見たときに「これで大丈夫なのだろうか」と思う気持ちがあったとしても、過去、現在、未来を全体的に眺めたときにその人が自らの道を進む力のようなものを信じられたら、もっとふさわしい位置で他者を見つめることができるのだと思った。彼にとって、命が自分の道を進む力をすべての人が持っていることは確信していることなのだと言っていた。それは彼が占う際に、それぞれの人が持つ、あるべき方向に進もうとする力が見えるからだ。それが見えて、自分の価値観ではなくその人にとっての道の立場からその人に言葉を投げかけられるのは、羨ましいなと思った。

・彼は、生きるためにする動作のすべてがその場にいる人やその場にあるものを愛することに直結していて、それが本当に尊いことだと思った。「誰もが生きているだけで人を幸せにしている」的な言葉を私はあまり実感できないというか、その言葉は大げさだと思うけれど、彼の場合は生きる動作のすべてが他者や彼の近くのものを愛しているのだと感じることができた。彼の今までの人生のすべてが今を構成していることを感じた。そして、今ですら彼のことを本当に尊いと思うけれど、これが完成系ではなく、もっと先があるのだと思うと、人間って本当にすごいなと思った。

・そのほかにも、どんな人間にも仏性があってそれが棘みたいなものに埋まっているだけであるという視点は大切だけれどそれと同時に自分が誰と仲良くするかは関係がないこと(仏性と生命力はすごく近い位置にある言葉というか、たぶん指しているものは同じだけれど見る視点が違うだけだと思う)、すべての人間がそのままでよいのだと確信する視点は一人の人間である自分ではなく自分やそれ以外の物をすべて俯瞰するようなもっと高い位置にある視点だけれど同時に自分と目の前の他人の間でぶつかるような自分自身から見た視点もどちらもあっていいのだということ、部屋が整っている方がいいというのも一つの価値観であり程よく汚い方が落ち着くという価値観もあること、同じことを同じクオリティでできることがプロとしての働き方でそのためには修行が必要だけれどそのような働き方をしないこともアリだということを学んだ。それぞれの学びを羅列したのは、自分の頭の中には入ったけれど、それらを体感して自分の言葉として持つことができるまでに熟成させるまでに到達していないと思ったからだ。
・いつか彼にまた会いたい。それはすごく頻繁に会いたいという意味ではなくて、もっと自分が先に進んで人生の幅が広がった後に、人生の幅が広がった余裕を持って彼に会いたいということだ。

・(諸々あってこのあと加計呂麻島に行ったときに書いた日記があったのですが、この後の日記に統合しています!つまりその部分は消しています!諸行無常を感じてください!)

・またこんど!

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