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【翻訳】Kaiserreich進捗リポート88 オスマン帝国その1

原文、高画質の画像はこちら↓

https://www.reddit.com/r/Kaiserreich/comments/ccepic/progress_report_88_the_ottoman_empire_part_i/)

 今日は多元的で分裂した、しかし軽症にまで落ち着いた帝国、オスマン帝国を見てみましょう。一度にすべてを公開して混乱させるつもりはないので、いくつかのPRに分けて、注目すべきシステムやルート、新たにNFツリーを獲得する関連国家タグをお見せします。では本題に入りましょう。本日のトピックは悪名高きムスタファ・ケマル・パシャ大宰相が治めるオスマン帝国、その集権派ルートです。


新しい前史

 大戦勃発後の帝国の状況は控えめに言っても悲惨だった。世界最大の帝国としての強大な重責の下、オスマン帝国はトルコ人の膨大な犠牲者を出しながら、とうとうアナトリア付近まで撤退を余儀なくされた。1918年後半、パレスチナでの玉砕と下イラクの陥落によって戦況はいよいよ逼迫した。ムスタファ・ケマル・パシャはタラート・パシャのアレッポ防衛の命令をかたくなに拒否し、北の防御陣地への戦略的撤退を指揮、オスマン軍はやむなくタウロス山脈に陣地を構築した。アンテプでも玉砕を重ね、手痛い存在を被ったが、コーカサスからの新たな援軍と背水の陣によって、アレンビー軍をマラシュ付近で頑強に阻み、侵攻を食い止めた。後に「マラシュの奇跡」と呼ばれたこの戦いは戦争の、更にはオスマン帝国そのものの転換点となった。弱体化したアレンビー軍は度重なる攻勢によって再度の全面攻勢の機会を失い、更に1919年の西部戦線崩壊によってオスマンへの圧力は徐々に減少した。そして戦乱の終結時、オスマン政府(Porte)はとうとう勝者として君臨した。

 だが飢餓や脱走兵の略奪、ハーシム家の活発な反乱が重なったことで、オスマン帝国の問題は消えず、むしろ一層複雑化した。だが政府はこれを耐え抜き、反乱を鎮圧した。目先の問題が解決したことで、帝国は再び未来に目を据えた。大英帝国の崩壊から軍事・経済的に多大な利益を勝ち取ったことで、1936年には再び中東の有力な大国としての地位を回復した。

ゲーム初期

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新しいオスマン帝国の国民精神。前史の変更に伴い「オスマン帝国の衰退」と「オスマン債務管理局」が削除されている。代わって
・イスラム教と政府の密接なつながりを反映した「制度化されたイスラム教」
・国民の低い識字率を示す「大規模な文盲」
・先の大戦後の外交方針「武装中立」
の国民精神が追加されている

 1936年1月1日の時点で政権を担っているのは、ムスタファ・ケマルのオスマン人民党を中心とする民族主義連立だ。前年の選挙で「自由派」の自由協約党(HIF)連立政権が33~34年来のスキャンダルが原因となって崩壊したことで、民族主義連立が接戦の末に勝利した。自由派連立が1931年から1935年までに引き起こした「被害」の多くはすぐに差し戻され、現在のオスマン帝国議会は世論を二分する問題、教育統一・共学法の投票が間近に近づいている。教育方針に大きな変更を持たらす準備が着々と進められ、野党の多くはこれを急速な西洋化と世俗化を食い止める最後のチャンスと捉えている。下のテキストの中にもプレイヤーが進むルートの選択に大きな影響を与える内容が書かれている。

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国民の精神と心を巡る対立はここ数十年精力的に争われ、性急な近代化もこの問題に拍車をかけてきた。19世紀から始まった改革は、長い年月をかけて着実に進められてきたが、そのほとんどを世俗主義運動が担っていた。オスマン人民党は大戦後もこの戦いを続け、女性の高等教育参加を皮切りに、数年後には当時のスルタンであるメフメト6世の勅令として、正式に完全共学化を実現した。にもかかわらず、現時点でも政策の全面的実施は難しい状態にある。保守的なウラマーの激しい反対や、各種の教育制度が今なお分断されているため、一元化に向けた政策の実現は困難を極めている。
オスマン帝国の教育制度は三つの主要組織から成り立っているが、いまだに分断されたままだ。タンジマート改革期に設立された近代教育機関の高校(idadi)と大学(sultani)は統一カリキュラムの下に統合されたが、マドラサ(イスラム系教育機関)と少数派学校(ミレット制によって保護されている)は全国教育省の手の及ばない機関として今なお残っている。
人民党が長年に渡って改革案を掲げてきた。三大機関を教育省の直接監督下に置き、カリキュラムを合理化することで、地域社会の結束を強め、教育制度を一般国民にも馴染みやすい内容に変えようとしてきた。ここ数年間、特に1927年の第一次人民党政権下では、この目標の達成に向けて大きく前進したが、1931年に発足した後続の分権派政府はこの政策を再度覆し、州(Vilayet)ごとの教育制度を支持した。このため教育の質と機会の両面で壁が生まれ、格差が生じてしまった。
再び政権の座に返り咲いた今、人民党は上記の改革案を「共学並びに統一法」として纏め、議会に提出した。ついに完全な教育制度統合と強制的な男女共学を施行する法律が制定するかに思われたが、政府への影響力低下を防ごうとするスーフィー教団が保守派保守派を支援したことで、大きな障壁が立ちはだかっている。

ケマル集権化ルート

 人民党が掲げるその他の公約も絶え間ない妨害に疲弊し、政府はゆっくりと未来のオスマン帝国に向けた構想を実現しようと試みる。

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「司法委員会の設置」「教育省の拡大」「民法の改定」

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初期の改革イベント。タンジマート改革期そのままの民法典や、未だに低い女性の権利の改革がゆっくりと進む


 改革案は野党とその支持者、更にはスルタンの間で空転し、民衆の暴動を招き、36年2月のドイツ経済崩壊でさらに打撃を受ける。ここでの行動を誤れば致命的な結果を招き、野望は自棄尚早と判断されて終わる。

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遅々として進まない改革や、保守派とスルタンの妨害に業を煮やした人民党がケマルに早期選挙を要求する。その一方で首都コスタンティニエでは支持者同士の対立が激化し、過激な行動が裏目になる可能性も示唆されている。

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ケマル暗殺未遂。人民党はこれを機に大宰相府への権限集約を考え始める。


 しかしピンチはチャンスにもなる。混乱に乗じて素早く行動することで、人民党はその前身となる進歩と統一委員会同様、一党制の樹立を宣言する。大宰相による独裁体制が作られ、スルタンをこれまで以上に無視する。

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治安維持法制定と関連のNFツリー。ケマルに大きな権限が与えられる一方で、退役兵や元進歩と統一委員会メンバー、野党から激しい反発を受ける。


 望む権限を全て掌握した今、大宰相はトルコ国民のためのグランドプランを導入し、強く、合理的で、集権化されたオスマンの実現に向けてドラスティックに行動する。これは一部勢力との軋轢を生じさせる。

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ケマル改革ツリーの全体図。一党独裁体制確立の下には旧民法典の廃止やオスマン語の改革など抜本的な改革NFが用意されている

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トルコ語の表記について。ラテン文字を選択すると史実でラテン文字での読み書きを推進した運動「国民学校」のNFが解放される

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憲法制定NF

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政府に影響力を及ぼしてきたスーフィー教団の処遇。国政から切り離すとスルタンが反対意見を述べてくる。

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史実でトルコ共和国の理念教育を目的に作られた文化組織「人民の家」。この世界ではオスマン人意識の育成を目的としている。そして選択すると後述する各州の「不穏度」が低下する。

しかしトルコ人国民のほとんどが賛同しようとも、アラブ人やその他の少数民族はみじんも喜んでいない。この社会不安と複雑なタペストリーを表現するべく、めざとい人にはすでに気づいているだろうシステムを用意した。


特殊システム

 オスマンではKRおなじみの安定度減少に部分的な変更を加え、各州に不穏度(unrest)を用意した。この数値の上昇が安定度の減少となって反映され、エジプトとの戦争中の反乱にも影響を及ぼす仕組みだ。

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初期に備わっている四つ目の国民精神「帝国の安定」。内容によると各州の不穏度に応じて安定度にマイナスの補正が掛かり、ここで合算されて表示される仕組み。

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オスマンの州には主要な人種や宗教設定が設定され、またレジスタンスの場所に不穏度が表示されている。

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クルド人部族ムスタファ・バルザーニの反乱鎮圧。安定度は上がるが州の不穏度は上昇する。

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イラク南部で子供たちがスンニ派に教化されることを恐れたシーア派の両親たちが教育を邪魔している。政党支持率が上がる引き換えに不穏度も上昇する。

更にすべてのステートに「自治区域(Autonomous Region)」「州(vilayet)」「オスマン直轄地域(Ottoman Province)」までの集権化の度合いを示すステータスを用意し、徴兵可能人口と建設スロットに影響を与えるようにした。各州は(お察しの通り)先述の不穏度システムと連動し、主にディシジョンによって集権度が変わる。

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州ごとの集権度。一番低い「自治区域」では徴兵人口と建設スロットに大きなデバフが掛かる

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ギリシャ諸島、クルド人地域、アラビア半島の集権化を取り扱うディシジョン。ここで表示される統合度(integration)によって州のステータスが変わる。一例として統合度を上げる引き換えに不穏度も上昇するディシジョンや、政治力を消費して統合度上昇と不穏度低下を両立するディシジョンが表示されている


 このシステムは一種の「準中核州」、つまり完全な中核州と植民地州の中間を表現する方法として機能し、分権化ルート(この話はまた次回)や将来的な再征服まで、幅広い領域で扱われることになる。

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「ナジュド州の回復」

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「オスマン・ルネサンスの夜明け」から始まるアラブ戦争後のツリー。左の分岐は右が「副王領の回復」から始まるエジプト傀儡化、左は併合ルートだろうか

外交と軍事

 ケマリストの構想は国内のみを重視する訳ではない。改革を円滑に実行するためには国境地帯の安定が必要なのは明らかだ。だとしてもオスマン帝国は可能な限り中立の立場から外交政策を追求し、選択を迫られると将来の戦争を避ける方針を進めるため、この殻を割るには外圧が必要となってくる。

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外交ツリー。ドイツとオーストリアとも同盟を結ぶことが可能で、またアラブ諸国と独自の同盟を結成できるようだ


 もちろんこの他にも、経済ツリーが自給自足経済、国内市場の保護、国家主導の工業化を基に一新され、同じく軍事ツリーも更新される。

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 ここでは簡潔にまとめましたが、オスマン帝国のより複雑な事情、1917年から36年までの間に何が起きたのかを知りたい方は、アップデートされたKaiserreich wikiをご覧ください。オスマン人民党結成の経緯や、なぜケマルが大宰相なのか、なぜスルタンが積極的行動を控えるのか、多くの疑問にお答えできると思います。

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後編はこちら↓

https://note.com/nostromo/n/n26714894f957

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