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『社会科見学』

 この話は2011年11月にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第49作目です。

  今回のこのストーリーから、旅のストーリーを書き始めて5年目に入る。月に1本ながら、自分でもよく続くと思う。
 月に数回海外出張をしていた生活から離れて10年以上経ち、国内外を問わず旅に出る回数は減ったが、ストーリーを書き始めてから旅に関わる昔のことを本当によく思い出すようになった。
 作家の故百瀬博教さんが、著書の中で自身の事を、「想い出に節度がない」とよく書いていらしたが、僕の場合は旅の「思い出」だが、僕にも同じ面があるのかも知れない。
 航空会社に勤めていた頃の一日、今から15, 6年前になるだろうか、部署内で経理の仕事をしていたTさんが、「これ、面白そうだと思いませんか?」と業界誌の記事を持ってきた。その記事には、あの超高級ブランドのHが、シンガポールのラッフルズホテルでハイティーのマナー教室を開くとあった。
 イギリスの文化も好きなので、面白そうだと思ったし、会場がラッフルズホテルだということにも興味をそそられた。結果短い休みを取り、Tさん、後輩、そして同時期に現地で商談が予定されていた同僚の一人と共に参加することになった。

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 マナー教室は、英国人のご夫人が講師で、勿論英語で行われた。スコーンの正しい食べ方、例えば、塗るのはジャムが先か、クロテッドクリームが先か等を、実際にハイティーをしながら教わった。
 スーツにネクタイで臨み、終始お行儀良くしていたので肩が凝ったが、いい経験になった一時だった。しかし、数年後同じシンガポールでハイティーをしたときには、スコーンに塗るのはジャムかクロテッドクリームのどちらが先か最後まで思い出せなかった。
 その翌日、スーツを持っていたので、同僚の商談に同席した。商談相手は、シンガポールの代表的なビールであるタイガービールを製造・販売している、Asia Pacific Breweriesだった。
 シンガポール路線に、タイガービールを飲み物のメニューの一つとして加えてなかったので、その商談だった。機内で出す飲み物類の調達を担当していた同僚、僕、商談がまとまった場合に輸入に関して助けが必要になるので、シンガポールの貨物課のマネージャーも同席した。
 滞在先のホテルにセールス・マネージャーのC氏が迎えに来てくれて、郊外にある工場を目指した。このC氏が結構力のある人だと分かったのは、帰国してしばらくしてからだった。
 国内外のどんな職種でも、訪問した先で最初に通されるのは、通常応接室や小奇麗な会議室だったりするが、我々が通されたのは、応接室として使われている工場内にあるパブだった。
 ビールという食品を扱っている工場内にあるためか、隅々まで掃除が行き届いていて、とても清潔なパブだった。
 お茶等が出されるはずも無く、出てきたのはパイントグラスに入った樽から注ぎたての生のタイガービールだった。これが本当の工場直送のビールだと、この話しを書きながら改めて思った。
 ゴミを一つ街中に落してもうるさく、チューインガムを禁止しているルールの厳しいシンガポールという国で、商談にアルコールなんてと思ったが、そのギャップが可笑しくもあり、先方のビジネスの進め方に感心した。
 熱心に話し込んでいる先客がいたので、そのパブ内では他の商談もいくつか行われているようだった。その商談は同僚が主として関わっていたので、僕は商談中パブ内をキョロキョロ見回していた。
 そのパブを任されている、業界では有名だというお爺さんが、どんどん飲みなさいと絶え間なくタイガービールを勧めてくれた。このお爺さんがビールを勧めてくれる際の大きな声と笑顔は今でも思い出すことがある。
 商談が一段落したところで、工場見学をさせて貰ったが、場内は本当に清潔で、作業が効率よく行われているのがわかった。
 他国の他のブランドのビールもライセンス生産をしているとのことで、見慣れたロゴをいくつも目にした。こんなビールまでというものもあった。
 好きなビールに関係することなので、商談に来ていることを忘れて楽しんでしまった。
 ランチは近くにあるポロクラブに連れて行ってくれた。そこでは、競技が行われていないどころか馬が一頭もいないフィールドを見ながら食事をした。
 貨物課のマネージャーが勧めてくれた、シンガポールのローカルフードの一つであるラクサを食べた。今でもラクサを食べるとこの食事の席のことを思い出す。
 同席しただけの商談を通してだが、工場でのパブに、ランチでのポロクラブと、シンガポールにはまだまだ英国色が残っているのを垣間見た気がした。
 商談が終わり、帰りがけにお土産としてビールジョッキをいただいた。このビールジョッキは現在母親宅に飾ってあるが、目にする度に、よくこんな大きくて壊れやすいものを無傷で持ち帰れたなと思う。

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 シンガポールでの短い滞在の間に、ハイティーでのマナーを学び、ビール工場を見学しつつ、全く無縁であったポロクラブにも足を踏み入れることが出来た。半分仕事のようで仕事ではないような、こんな不思議で、体験することは全て初めてという旅はその後経験していない。
 前述のC氏がどのくらい力があったかという話だか、当時僕が毎週通っていたバーが青山にあった。一日そこのオーナーにタイガービールを店のメニューに加えたいと相談された。
 帰国後しばらくして、商談をした前述の同僚の仕事を僕が引き継いだので、その頃はC氏と直接仕事をするようになっていた。早速C氏に問い合わせたところ、都内の取引先の連絡先を教えてくれて、自分の名前を言うように案内してくれた。
 その旨をバーのオーナーに伝えて数時間後、オーナーから連絡があった。オーナーからC氏の名前を聞いたその取引先が、バーに飛んで来たというのだ。
 オーナーは何でC氏を知っているのかと驚かれたそうだ。お酒の業界のことはよく分からないが、業界内でのC氏の存在感を知った気がした。ここでも世の中の未知の部分を見せて貰った気がした。
 たまにチキンライスが食べたくなって出掛けて行くシンガポール料理のお店や、輸入食品のお店でタイガービールを見ると、この旅を思い出して、旅の思い出に節度がなくなってしまう。
 近々自宅でハイティーの定番であるキュウリのフィンガーサンドイッチを作っておつまみにし、ゆっくりタイガービールを味わってみようかと思っている。きっとこの旅のことをいろいろと思い出すだろうなあ。

追記:(全て当時のまま記します)
1. このストーリーは、10月22日に中目黒にオープンしたトラベラーズファク
 トリーで仕上げました。タイガービールの工場(ファクトリー)へ行った
 話の仕上げを、トラベラーズ “ファクトリー” で行うとは思いもしませんで
 した。トラベラーズファクトリーの2階で、徳島のアアルトコーヒーさんの
 美味しいトラベラーズブレンドを飲みながら、ストーリーに取り組んでい
 ると、書きたい話が次々と浮かんできて、旅の思い出に節度がなくなりそ
 うになりました

2. ラッフルズホテルの写真は去年約10年振りに訪れたときに撮影しました。

3.いただいたビールジョッキ(写真左)。Tシャツ(写真右)は一昨年ベトナ
 ムを旅行した際にホーチミンで入手したもの。カクテルのシンガポールス
 リングの発祥の地とされている、ラッフルズホテルのロングバーでビールを
 注文してリクエストをすれば、この形のビールジョッキで飲めるようで
 す。ロングバーを訪れる度にこの形のビールジョッキで飲んでいる観光客
 を目にしますが、欧米の方々が多いようです。

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