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『Barにて・5』

 この話は2020年9月にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第155作目です。

 前作は台湾、前々作はシンガポールに寄り道してしまった。今回は再び2019年5月の香港再訪の話の続きを。香港再訪の話もあと数話を残すのみ。

 この話を書いているのは2020年の8月。ゴールデンウィークに続き今夏もコロナの影響で旅がままならない。報道で見聞きする香港も書いていて違和感を覚えるほど変わってしまった。

 帰国前夜の夕食の後で一度ホテルへ帰館。シャツを変えジャケットを羽織って一人で出かけた。小雨がパラついていたが傘をさすほどでもなかった。やはり香港。陽がすっかり落ちても心地よい風は吹かず汗ばむほど蒸す。

 行き先はペニンシュラの中にあるバー。ペニンシュラはこの旅で宿泊していたホリデイ・イン・ゴールデンマイルの目と鼻の先にある。

 訪れるのは2012年の再訪以来。酒飲みの習性なのか幾分早足になり迷わず「The Bar」に辿り着いた。

 ピアノの生演奏に重なったバーテンダーの“Good evening !”の声を聞き終わらないうちに一人である旨を合図してカウンター席へ。

 グレンリベットのハーフロックを注文。バー全体を見渡しながら問題ないという様子で注文を受けたバーテンダーの仕事を横目で見ていた。

 お待たせしましたとロックで堂々出してきた。これだからバーではカウンターに着いてバーテンダーの仕事を見ていないとだめなのだ。特に一見のところや久しぶりのところでは・・・。

 ロックに水をジガーでワンショット入れるのがハーフロック。バーテンダーに説明してグラスを差し出して水を注ぎ足させた。「落ちたね、ペニンシュラ・・・。」と日本語で独り言ちた。

 Instagramで改めて知った伝説のバーテンダーであるジョニー・チョンさんの姿がずっと見えない。どうやらジョニーさんはお休みらしい。ついてない・・・。ジョニーさんがいたら出端を挫かれたこのガッカリとストレスはなかったかもしれない。ジョニーさんと話しながら飲みたかった。

 楽しみにしていた旅先のお店を訪れると運悪く定休日。そのときと同じものを感じた。旅先ではこういうこともあるものと無理やり納得することにした。

 中途半端な作りのハーフロックを飲みつつぼんやりとバックバーを眺めながらこのバーに来るまでを思い起こした。

 噴水をぐるりと回り込みながら正面玄関に辿り着くと、ドアボーイがこれ以上ないという絶妙なタイミングでドアを開けてくれる。さっと目礼すると笑顔がとともに目礼が返ってくる。

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右から正面玄関へ行きました。ここは動画にしたかったのですが・・・。

 館内に足を踏み入れる。ロビーは人の話し声と楽器の演奏でホテル特有の騒々しさだ。冷気がジャケットを通して肌に刺さるほどに冷房が効いている。                                 ゆったりとした通路の両サイドは一日中飲食ができる「The Lobby」。   ここも香港を訪れる度に滞在中一回は必ず立ち寄るところだ。  

 食事をしている人、お茶を飲んでいる人、テーブルが空くのを並んで待っている人がいる。世界にいくつもある観光地化されてしまった一流ホテルのコーヒーショップの一つだろう。

 カメラのフラッシュが何箇所かで光った。ここはずっと写真撮影に厳しいところだった。注意されなくなったのは1997年の返還後だったと思う。垢抜けない大陸のスタンダードが浸透してしまったのか。

 「The Lobby」の間の通路を抜け、絨毯が敷き詰められた階段を上がる。建物の2階となるが、英国式なのでここが1階となる。建物の1階はエレベーターでは「G」と表示されるグランドフロアであることはトラベラー各位がご存知の通り。

 階段を1つ上がっただけでG階の喧騒が嘘のように静かだ。気をつけていないと通り過ぎてしまうほど「The Bar」の間口はそれほど大きくない。

 ふと我に返ると同時にピアノの演奏が終わった。ピアニストに向けてグラスを掲げた。”Thank you”の声が笑顔と一緒に返ってきた。あとで何か一杯差し入れよう。

 ちょうど飲み終えたのでもう一杯。気がつくと目の前に「お通し」が並んでいた。前回もこんな感じだったなと思った。

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後から水をワンショット足したハーフロックです。

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「お通し」はこの3品でした。旅先とはいえ一流ホテルのバーでこうして写真を撮るのはやはり無粋だと改めて思いました。反省。 

オリーブ・・・。シンガポールのラッフルズにあるWriter’s Barのものが懐かしく思い出された。美味しかったけれど・・・。 

 2杯目のハーフロックを飲みながらこの旅を振り返っていた。出発直前のギックリ腰、建設途中のバスターミナルのような成田空港のLCC用のターミナル、LCCの安かろう悪かろうが如実に表れたチェックインカウンターの対応、機内の様子、毎回再訪を嬉しく思わせてくれる裏切らない数々の香港ならではの食事、数々の懐かしい場所、期待はずれだった場所や食事、変わらないスターフェリー、二店とも品揃えが悪くなったデューティー・フリー・・・。

 旅の振り返りが終わるころに、今度は帰国後の日常が気になり始めた。仕事はかなり溜まっているだろうか?帰国後の初日は溜まっているものの仕分けと優先順位付けに専念しよう・・・とか。非日常の旅先にいながら首根っこを掴まれて帰国後の日常へグイッと引き戻されたような感覚になった。

 もう少し気持ちを香港に置いておきたくなった。まだ休暇中だし旅先にいるのだ。落ち着くためにもう一杯ハーフロックを注文しようと思ったが、荷造りが途中だったことに気付いた。大した荷物ではないのだが、3つ買ったスノードームを上手く収めなければならなかった。ある程度出来上がっているパッキングの隙間に収まらなければ一からやり直しとなる。書かなければならない絵葉書もまだ数葉残っていたかも。

 悪くはないひとときではあったが少々白けてきたので席を立つことにした。中途半端なハーフロックがケチのつき始めだったのかも・・・。

 エレベーターを使ってG階に降りた。そのまま外に出ないでベルデスクへ回った。ペニンシュラのベルデスクは「The Lobby」を抜けた奥にある。よく目にする正面玄関の端に申し訳程度にあるものではなく、かなりスペースが取られたベルデスクだ。

 身なりの整ったベルボーイが “Good Evening, Sir. How Can I Help You?”ときた。ジャケットのポケットからiPhoneを取り出し、ホテルのステッカーだらけになった自分のスーツケースの写真を探した。

 ステッカーがよく映っている一枚を見せながら、もしあるならばここのステッカーが欲しいと伝えた。2009年、2012年に再訪したときはなかったので諦めていた。「以前はあったのですが、もうステッカーはないんです。申し訳ありません」と言われて帰るつもりだった。ところが、「少々お待ちください。」と言ってベルボーイは奥に消えた。

 ベルボーイのユニフォームではなく、スーツを着た責任者風のスタッフが改めて出て来てステッカーがない旨を丁寧に伝えられるのだろうと思って待った。

 それにしては随分待たせるなと思っていたときにベルボーイが戻って来た。何か手にしている。手にしていたステンレス製のケースを開けて取り出したのはステッカーだった。思わず「オーッ!」と声が出た。目の前に並べられた6種類を一枚ずついただいた。アルコールが入っていたがそのケースもくださいと願うのは控えた。ジーンズにブーツだったが、襟付きのシャツにジャケットを着て腕時計もしていたからここまでの対応を受けたのかも知れない。 

 ベルデスクでステッカーがあるかないかを待つ間のドキドキは旅先で何度も味わってきた好きなひとときである。まさか帰国前夜に味わえるとは。

 気持ちよく対応してくれたベルボーイに心からのお礼を言って気分よくペニンシュラからホリデイ・インへ帰った。少し前は「落ちたね、ペニンシュラ・・・。」だった独り言が「流石だね、ペニンシュラ。」に変わっていた。

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外に出てペニンシュラをよく目に焼き付けてからホリデイ・インへ帰りました。

追記:

1. ステッカーの写真を載せるのは控えました。いつかどこかでお見せできればとは思いますが・・・。

2. この香港再訪の旅に関してはこれまで「初めてと久しぶり」「旅先で食べたもの・15」「変わらない」「初店」「蝦蛄(シャコ)」「Good Old Days」というタイトルで書きました。未読の方は是非。

3.「おとなの青春旅行」に収録されなかったシカゴの話が講談社現代新書のウェブサイトに掲載されて一年になります。以下URLからまだご笑覧いただけますので、未読の方は是非ご笑覧ください。  https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56969


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「おとなの青春旅行」講談社現代新書                                                            「パブをはしごして、青春のビールをーイギリス・ロンドン」を寄稿


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