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『ここまでも・・・』

 この話は2020年10月にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第156作目です。

 この話が掲載されると丸13年「みんなのストーリー」に旅の話を毎月掲載していただいたことになる。毎月一読の上掲載をご検討くださるトラベラーズノートのスタッフ各位、毎回アイコン用にイラストを描いてくださるデザイナーの方に御礼申し上げる。

 前回は香港のペニンシュラにあるThe Barの話だった。正面玄関からペニンシュラに入り、通路が二分しているThe Lobbyを抜けて、The Barのある1階(建物の構造上は2階)に続く階段を目指した。

 The Lobbyは一日中食事ができるところだ。世界中からやってくる観光客の多くはカフェとして利用しているのではないだろうか。その都市のランドマーク的な高級ホテル内にありながら世界で最も多くの観光客に利用されているカフェかもしれない。

 香港にやってくると滞在中少なくとも一回は訪れているはずである。返還前の1992年からだからこれまでに訪れた回数は相当だ。おこがましいが自分にとってはある意味旅先の行きつけのカフェだ。

 2019年5月の再訪時にもThe Lobbyを訪れた。帰国当日に飲茶の朝食を済ませた後のホテルをチェックアウトするまでの時間に母と立ち寄った。The Lobbyはまだ朝食の時間帯だった。

 母は紅茶、私はコーヒーを頼んだ。旅を振り返りながらコーヒーを飲み、The Lobbyのあるグランドフロアを行き交う人たちを見ていた。

 欧米から、日本からと思われる人たちがグッと減ったように映った。入れ替わるように大陸からの観光客がかなり増えたように見えた。

 正面玄関から続く通路の端にある大掛かりな展示と階段の前あたりが結構な頻度で稲光りのように光った。観光客が記念撮影のために焚くフラッシュだ。

 The Lobbyとその周りは写真撮影が固く禁じられていた。かつてはカメラを構えただけでスタッフが飛んできて注意していた。フラッシュを焚いた人は丁寧に追い払われていた。

 注意されている人、追い払われる人を何人もコーヒーを飲みながら遠目に見てきた。カジュアルな格好の日本人が多かった。ピカッとフラッシュが焚かれる度に、「あっ、また退場」と思ったものだった。

 いつ頃からかホテル側は写真撮影を全く注意しなくなった。それに気付いたのは1997年の返還後しばらくしてから大陸からの観光客が増えてきた頃だっただろうか。

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もう注意されることはないのですが、長年の「写真撮影禁止」が身に付いていて、写真を撮るのはどうしても遠慮がちになってしまいました。これが精一杯でした(苦笑)。

 今回の「稲光り」は特に酷かった。「落ちたね、ペニンシュラ・・・」とThe Barに続きThe Lobbyでも思わず独り言ちた。

 そう思ったときにここペニンシュラに関する作家の故百瀬博教さんの話を思い出した。以下百瀬さんの著書「空翔ぶ不良」より。

 「・・・翌朝もその次の朝も、眺めだけは良いがパンケーキは不味いホテルから、歩いて五分ほどの『ペニンシュラ・ホテル』に朝食を食べに行った。初めての日、パンケーキを注文すると、苺の入ったクレープにクリームがたっぷり掛かったものが二個出た。こちらの英語が半ちくだから間違えたのだ。プレーン・パンケーキと再び注文するとニューヨークのホテルで食べたのより美味い正真正銘のが出た。ニューヨークのより大き目だが、薄くて上品だった。蜜をどっさりと使って全部食べた。二度目にペニンシュラ・ホテルで朝食を注文した時、父母の墓がある龍泉寺の住職そっくりな大柄なウェイターが来た。パンケーキと、パパイヤと、オレンジジュースと目玉焼きにベーコンエッグ添えとミルクティーを注文すると日本語で「多すぎます」と日本語でそっくりさんが言った。客が飲めとも言わないのにやたらボトルの酒をがぶ飲みするホステス達に聞かせたい台詞である。大いに感心して、旅のノートに彼の名をサインしてもらい写真を撮った・・・」

 The Lobbyを含むペニンシュラは客との間でこういうやりとりができたところだった。店側も客に失礼にならないように店のレベルを死守していた。諸々理解した人たちが客として訪れ利用したのだ。毎回訪れる際に少々緊張するのはそういう場所だったからだ。

 写真を注意しなくなったのは、注意してもキリがないのと、場所柄を理解できない客ばかりになってしまったからだと察する。大陸のスタンダードが浸透してしまったとまでは言わないが・・・。

 欧米からの客が減った一因もそこにあると思う。嫌になってしまい去った老舗のプライドを心の支えにしていたスタッフもいたのでは。

 この話を書きながら2009年か2012年にギフトショップで買ったコーヒーカップで麻生珈琲さんの「ホテルブレンド」を飲んだ。

 一日ホテルブレンドを買いにお店に行くとオーナーの麻生さんがいらっしゃった。麻生さん自ら豆を挽いてくださった。支払いを済ませると、「時間ある?ちょっと待ってて・・・。」と言って麻生さんが奥へ消えた。戻ってくると「これをあげる」と手にしていたマッチをくださった。

 未使用のThe Lobbyのマッチだった。大掛かりな断捨離をなさっていて出てきたようだ。前作のThe Barの話でThe Lobbyにも少々触れたのを読んでくださったのかもしれない。ありがたく頂戴した。

 ペニンシュラのコーヒーカップでホテルブレンドを飲みながらいただいたマッチを手に取って眺めた。1992年に初めてThe Lobbyを訪れたときはまだスモーカーだった。その当時のThe Lobbyは正面玄関から階段まで続く通路が喫煙席と禁煙席を分けていたと記憶している。マッチは各テーブルの灰皿のそばに未使用のものが常備されていた覚えがある。こんな立派なマッチではなかった気がする。

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いただいたマッチ。胸のポケットに入れるとはみ出す長さです。マッチひとつでもこだわりを持って作ったという感じです。時代を感じさせますね。

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麻生珈琲さんの美味しいホテルブレンドをペニンシュラのコーヒーカップで。デザインが記念品的ですが好きです。この話を書きながら何杯も飲みました。

 1992年・・・返還前でまさに写真撮影にうるさかった頃だ。当時は20代。背伸びをして一流ホテルでたばこを吸いながらコーヒーを飲んでいたことが懐かしい。

 香港はコロナなど関係なしに休暇や週末に訪れるには厳しいところになってしまった。マカオ滞在中に日帰りで訪れるくらいのところになってしまいそうだ。マカオから日帰りでThe Lobbyへ。ありえなくもない話だ。大好きな旅先の各所が徐々に廃れて行く様子を目の当たりにするのは辛い。

 ペニンシュラのウェブサイトでThe Lobbyの案内をチェックした。以下の記述を見つけて驚いた。

*A minimum charge of $350 applies to each guest

 これは14時から16時半に設定されているティータイムを利用する客に対する「お願い」に当たるものだ。わざわざ「*」が付いている。

 ドルは香港ドル。興味のあるトラベラーは日本円でいくらになるか換算してみてほしい。朝食、ランチ、ディナーの時間帯にはこのような断りはない。あえて断りを入れなくても一人当たりその金額以上は落とされていくのだろう。

 普通にコーヒー一杯だけで利用していた。今回も私はコーヒー、母は紅茶を一杯だった。メニューを手渡される前に飲みたいものを注文してしまうので、この「お願い」はずっと知らなかった。念押しもなかったし。

 スマートカジュアルのドレスコードもどこ吹く風、写真撮影も好きなだけだが、食べものも飲みものもテーブルいっぱいに注文してくれる客。場をわきまえ小綺麗な格好で行儀よくお茶を一杯だけ飲んでいる客。このご時世老舗の高級ホテルにとってありがたいのは前者なのだろうか。

 「みんなのストーリー」への投稿第1作目は2007年にThe Lobbyでサンドイッチを食べた際に出てきたケチャップの話だった。訪れたのはちょうどティータイムの時間帯だった。母はクラブハウスサンドイッチと紅茶を、私はローストビーフのサンドイッチとビールを注文した。振り返ってみると、そのときのウェイターの対応はいつにも増してよかった気がした。一人350香港ドル以上注文していたからかもしれないというのは考えすぎだろうか。

追記:

1. 本文で引用した故百瀬博教さんのお話は「香港再見」というタイトルで「空翔ぶ不良」(マガジンハウス)というエッセイ集に収められています。何度か紹介しているこの本は残念ながら既に絶版です。興味のある方は古書店などで探してみてください。トラベラーズファクトリーにあったような・・・。本文に登場する麻生珈琲のオーナーである麻生洋央さんのお話も「九歳の給仕」というタイトルで入っています。他にも珠玉の旅のエッセイでいっぱいの一冊です。

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付箋をしながら何度も再読しています。

2.「みんなのストーリー」掲載第1作目『ケチャップ』は現在も掲載していただいています。未読の方はどうぞご笑覧ください。

3. この香港再訪の旅に関してはこれまで「初めてと久しぶり」「旅先で食べたもの・15」「変わらない」「初店」「蝦蛄(シャコ)」      「Good Old Days」「Barにて・5」というタイトルで書きました。    未読の方は是非。

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「おとなの青春旅行」講談社現代新書                「パブをはしごして、青春のビールをーイギリス・ロンドン」を寄稿


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