見出し画像

『家族旅行』

この話は2023年1月12日にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。そのままここに掲載いたします。 これは掲載第183作目です。


 翌年の1月に掲載されることを願いつつ前年の12月に旅の話を書く。プロの作家並みに「年末年始」や「新年」を意識して書くようになったのはいつからだったか。振り返ってみたら昨年の同じ時期に書いた話の書き出しもほぼ同じだった。
 「年末年始」を念頭に置いたら「家族旅行」というフレーズがすぐ浮かんだ。とても収まりが良く感じた。何を書くかを決める前にタイトルを「家族旅行」に決めてしまった。
 「家族旅行」というと時期は世界的にいつか。旧正月、夏のバカンス、クリスマスといったバケーションシーズンになるのだろう。
 日本の場合は、ゴールデンウイークや、近年ではシルバーウイークもあるが、お盆を含めた夏休みと年末年始が主なのでは。家族旅行の一番の目的が帰省となるとその時期になる。
昨今若い頃に海外旅行を経験したおじいちゃん・おばあちゃんも増えてきている。おじいちゃん・おばあちゃんも一緒の海外への家族旅行は帰省を超えているかもしれない。
 僕の両親は江戸っ子の流れをくむ東京っ子。両親の帰省での家族旅行の経験はない。振り返ってみると、幼稚園と小学生の頃の夏休みはほぼ毎年伊豆へ。中学時代は部活と受験で確か僕だけ不参加。年末年始は行ったり行かなかったり。年末年始のハワイは幼稚園の頃と高校一年生のときに経験した。
 高校二年の夏休みの家族旅行は伊豆ではなくグアムだった。夏休みの旅行はずっと一緒だった叔母(母の姉)と従妹たちはこの旅行から不参加となった。父親の仕事関係の方々数家族と一緒の旅行だった。
 当時の僕はスポーツや音楽の関心は既に欧米に向いていた。二度目のハワイは高校一年生だったので、タワーレコードは渋谷よりアラモアナが先だった。
 グアムはアメリカ領。通貨はUSドル。「アメリカ」なのに時差は日本とわずか1時間(日本時間プラス1時間がグアム時間)。時差ボケの心配がない距離にどんなアメリカがあるのかが一番楽しみだった。

成田での出入国のスタンプ


グアムへ入ったときのスタンプ。グアムはやはりアメリカ。・・・1984年!
きっとまだ生まれていらっしゃらなかったトラベラーの方も多いのでは??

 グアムへはコンチネンタル航空で飛んだ。なぜか直行便ではなくサイパン経由のフライトだった。そのフライトでいまでも覚えているのは客室乗務員たちによる「機内ファッションショー」があったことだ。ハワイに行く機内では経験しなかったことだった。驚きながらも航空会社もいろいろなのだと高校生の自分は思った。
 宿泊はヒルトンだった・・・多分。大学を出て航空会社に就職して仕事でグアムを訪れた際の宿泊先がヒルトンで、この家族旅行を懐かしく思い出したのを覚えているので間違いないと思うが・・・。
 最初にあてがわれた部屋は景色が最悪。リゾート地を感じられないものだった。僕が「えっ?」と思っているうちに、英語が話せた父はもう受話器掴んでいてフロントと話していた。母と弟はただ父を見守っていた。
 当時まだ高校生で英語が話せなかった僕は、父が話している英語の中で辛うじて「no view」というフレーズが聞き取れた。外は雨。そういえばベッドカバーも少し湿っていたのを思い出した。
 こうまで違うのかという部屋に変わった。振り返ると、海外での不平不満の伝え方と自己主張の仕方はこのときに学んだ気がする。
 典型的なパック旅行だった。観光、ショッピング、ビーチ(何故か石がゴロゴロしていて海には入れなかったが)、我が家だけだったら絶対に行くことはなかったガンシューティング(射撃)にも行った。
 そういえば、食券をもらってビーチで食べたランチは酷かった。どんなランチだったかは覚えていないが、炭酸の抜けた甘いだけのトロピカルソーダ的な飲みものの味はたまに思い出す。
 一体ひとりいくらのツアーだったのだろうかと書きながらからふと思った。グアムまでは直行便ではなかったし。仕切ったのは父ではないことが明らかだった。
 滞在中同行した方々との夕食時にテニスコートを予約していた時間が来た。既にアルコールが入って話が弾んでいた父が僕と弟に二人で行って来いと言った。四つ下の弟は僕に「オレ、英語分かんないよ」と言った。
 行くしかない。手元に英和辞典なんかない。レストランから歩きながら組み立てた英作文をフロントで発した。聞き返されることなくラケットとボールがスッと目の前に出てきた。弟が「兄貴スゲー!」と言った。英会話が成り立ったことが嬉し過ぎたのか、テニスのことは全く覚えていない。
 買いものではノースリーブのTシャツが普通に売っていた。アメリカだなと思った。「GUAM」の文字と海のイラストがプリントされたノースリーブのTシャツを買った。
 レコードとカセットを揃えている売り場がスーパーマーケット内にあった。ワイキキのタワーレコードや、御茶ノ水の輸入レコード店と同じ匂いがした。ここでもアメリカを感じた。帰国したら観に行く予定だった「SUPER ROCK 84」に出演予定のSCORPIONSのLPを買った。
 大学を卒業してアジアの拠点が日本にあるアメリカの航空会社に就職。
機内食のサービスを管轄する仕事が長く、乗り入れているアジア各都市を何度も回った。社内ではグアムとサイパンはアメリカの準州なのに何故かアジア扱い。我々の管轄だった。グアムの法律はカリフォルニア州法に準じているらしく、まさにアメリカなのに不思議だった。本社は地理的なものを優先したのだろう。
 親に連れられて来たところに仕事で来るとは・・・と、仕事でグアムを初めて訪れたときはとても不思議に感じた。社員として搭乗する際のドレスコードとビジネストリップということもあり、スーツ姿でリゾート地のグアムに降り立ったことも手伝ったのかもしれない。
宿泊は客室乗務員たちの定宿だったヒルトン。その偶然で高校生の頃の家族旅行の思い出が甦った。父はもうその時この世にはいなかったが。


仕事で何度目かにヒルトンに宿泊した際に貰ったステッカー。いまでもスーツケースに。            上から上海の虹橋空港でセキュリティシールを貼られてしまいましたがそのままに。
未使用のステッカーもまだ手元に。ステッカーをもらったのはきっと1997年。

 この話を書くために旅行代理店でグアム行きのパンフレットを収集した。軒並み一人10万円台。「いつでも行かれる」、「アジアに飽きたのでちょっとアメリカンリゾート」という感覚でいた頃より約10万円高くなった気がした。グアムは気軽に行かれるところではなくなっていた。少なくとも僕には。いま自分に家族がいて、果たして全員分負担できるだろうかとも思った。

収集したパンフレットの数々。かなりの「価格高騰」でした。

 それから、都内のグアム政府観光局で資料となりそうなものをいただいた。旅の話を約16年書いていることを告げるととても親切にしていただいた。
 いただいた冊子には知りたいこと、訪れるべき要所、歴史、留意すべき点や旅のヒントが過不足なくまとまっていた。どこか外国へ行くことになったら、インターネットやガイドブックに当たる前に、先ずはその国の政府観光局に当たってみるというのが上手な情報収集だと知った。

グアム政府観光局でいただいた冊子。政府観光局は旅のヒントの宝庫かも左の冊子を片手にあとはトラベラーの嗅覚をツールにしてグアムで一人過ごすのもいいかもしれません。  やってみたいなぁ〜。
ヒルトンでステッカーをもらったときに一緒にもらった グアム政府観光局のステッカー 同じくスーツケースに。
手元に未使用が一枚。約25年前のもの。政府観光局の方に写真でお見せしました。   「思い出の品として保管していただいて嬉しく思います」と・・・。

 旅慣れたトラベラーだったら、その国の政府観光局で入手した情報とトラベラーの嗅覚のみで旅をしても面白いのではと思った。次はどこへ行くにしろこれはやってみる。
 今回は「年末年始」という人の移動が盛んになる時季を念頭に置いたら、「家族旅行」というフレーズが浮かんだ。そこからグアムという何度も訪れていながらストーリーに書いていなかった懐かしい地名が出てきた。
 記憶を辿っているうちに、改めて両親に対して感謝の気持ちが湧いてきた。政府観光局に先ずは当たってみるという、新たな旅の準備の「手順・1」が見つかったのは、改めて両親に感謝したリターンだったのだろうか。
 トラベラーとして2023年には何か様々ないいことが待っている気がしている。僕がするのは「旅行」ではなく「旅」だけど・・・。


      「おとなの青春旅行」講談社現代新書                  「パブをはしごして、青春のビールをーイギリス・ロンドン」を寄稿


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?