『口約束・1』

 この話は2009年3月に書いてトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第18作目です。

 ペンシルビルのドアを開けて、開業以来7年間転がり落ちた人が一人しかいないというのが信じられないくらい急勾配な階段を手すりに摑まりながら登り、行き着けの英国風パブの入り口に辿り着いた。
 ドアを開けると、カウンターに並んでいる見飽きた常連客の顔が四つこちらを向く前に結構大きな音量でかかっていた演歌が耳に飛び込んできた。
 オーナー兼バーテンダーのB氏がバーカウンターの向こうからすっかり出来上がった顔で言った「いらっしゃいませ」がよく聞こえなかったくらいだった。
 B氏とその常連達は開店前に鰻屋で結構飲んできたのだそうだ。大音量の演歌はB氏が大ファンの石川さゆりだった。和風テイストが皆無の店内に響き渡る演歌はいつもの慣れ親しんだ空間をガラリと変えていた。
 「天城越え」と「ウイスキーがお好きでしょ」が繰り返し流れている中で、演歌ねえなどと思いながらソーダ割りと言ったのに水割りで作られてしまったウイスキーを飲んでいるとシンガポールのJohnを思い出した。
 Johnはシンガポールにある取引先の担当者だった。口髭をたくわえた顔にレンズの厚いメガネをかけたマレー系のJohnはユーモアがありいつも冗談を言って笑わせてくれた。
 今から10年程前に会議で東京に来た時の空き時間にJohnは同僚のJosephと新宿の歌舞伎町をブラブラしていた時、当時携帯電話のPHSが1円で売られているのを見つけた。話の種に買って帰ろうと思ったが、ひたすら「No」と言われて買えなくてガッカリした話をしてくれた時は大笑いした。
 電話機本体を無料同然にして回線の契約を取るのが狙いだから一時的に滞在しているのであろう外国人を相手にしないのは当然と言えば当然なのだが、Johnとしては「日本の携帯電話ってこんなに小さくて安いのだ」というのをシンガポールにいる同僚や家族に見せたかったのだろう。
 シンガポールへ僕が出張した一日、コーヒーブレイクの時だったと思うが、Johnが「この歌手知っている?」と言いながら1本のカセットテープを持って来た。冗談好きのJohnがまた何か笑わせようとしているなと思いながらその顔を見ると、少々照れ臭そうな表情を浮かべていた。
 何度も聴きこんできたせいか、カセットのジャケットは印刷が薄れていて写真も文字もよく見えなかった。「これ誰?」と尋ねるとJohnは「ミエコ・マキムラだよ」と答えた。最初は誰だかよく分からなかったが、しばらくしてそれが日本の演歌歌手牧村三枝子のカセットテープだということが分かった。
 彼女の曲で僕が唯一知っている「みちづれ」がそのカセットテープには入っていて、Johnはその曲が一番好きだと言っていた。当時行きつけていた青山のバーで聞いた牧村三枝子さんがそのバーに来た時の逸話を思い出し、Johnに話したら結構驚いていた。
 そのカセットをどうやってJohnが手に入れたのかは聞かなかったが、日本の演歌を本物か海賊盤か分からないカセットで熱心に外国人が聴いていることに対して何だか可笑しくもあり嬉しくもあった。
 いつも冗談ばかり言っているJohnが今まで見せたこともない照れ臭そうな表情で僕に聴き込んでボロボロになったそのカセットテープを見せてきたということは、きっと音質が限界まで来ていたのでCDが欲しいのだなと察した。
 その頃は日本でもアジア各国の音楽が結構流行り始めていて日本でもシンガポールでもそれぞれの国のCDが輸入盤として入手できた。しかし、いくらブームになりかかっていたとは言え、演歌までは入ってきてなかったのだろう。Johnに「次に来る時までにCDを見つけて持ってくるよ」と言った。
 僕が野球ファンだと聞くとモントリオール・エキスポス(現ワシントン・ナショナルズ)の帽子を送ると言ったので帽子のサイズを書いた名刺を渡した機内で出会ったカナダ人、同じく機内や旅先のバーで出会って話が弾み今度遊びに来いと言われ連絡先やメールアドレス等の交換をした人達、旅先で写真を撮ってあげたお礼に一枚撮ってくれて写真を送るからと連絡先を渡した人達等が今まで何人もいたが全滅だった。
 そういう嘘つき達のせいで後から嫌な思いをさせられたことが何度もあった。信用できそうだから連絡先やメールアドレスを渡したのだから尚更だった。そのような経験をしてきているから口約束は大嫌い。日本に帰ったらそのCDを意地でも見つけて次に訪れるときにJohnに絶対に渡してあげようと思った。そこまで強く思ったのは、もし約束が果たされなかった場合「日本人は口先ばかり」と思われたら嫌だという気持ちがその時に働いたのだと思う。
 CDは簡単に見つかり、しばらくしてシンガポールを再訪した。仕事を始める前に「はい、これ。」と言ってJohnにCDの入った包みを渡した。Johnは最初怪訝そうな表情を浮かべていたが、渡したものがCDだと分かると何とも嬉しそうな表情を浮かべた。
 それから、こちらが辟易するほど握手を何度も求められた。ここまで喜んでもらえるとは思わなかったので少々驚いたと同時に、例え同じ依頼を他の日本の顧客達にしていて同じCDが何枚も集まったとしても約束が果たされていてくれたらと思った。
 大病を患っていたJosephの事が心配で先日久し振りにJohnにメールをした。たまに絵葉書を送ってくれるのだが、最近なかったので忙しいのだろうなと思っていたらメールの返事にかなり忙しい様子が書いてあった。Josephが順調に回復して元気で働いていることも書かれていて安心した。
 シンガポールで我々三人が集まるとビールをたっぷり飲むのが慣わしだった。ある時は夕食の予定が入っているにも関わらず、仕事が終わってすぐにバーの付いた応接室に移ってサテーを食べながらタイガービールを飲み始めたこともあった。
 Johnが今度いつシンガポールに来るのだとメールに書いていた。久し振りにJohnにもJosephにも、それから他のシンガポールの友人にも会いに行きたいと強く思った。
 再訪のスケジュールが決まったら、友人達それぞれに約束したままになっていることがないかどうかしっかり確かめるつもりである。


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