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『BMWのオートバイ』

 この話は2014年5月にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第79作目です。

 今回は以前からずっと書きたいと思っていた話の一つである。書きたいという気持ちが時間の経過に伴い段々と書き残しておきたいという気持ちに変わっていった。そんな今回の話に最後までお付き合いいただけたら幸甚である。

 “お前のところは国際的だよなぁ〜”とか、“君のところはインターナショナルだね〜”といわれて久しい。成田空港なんて出来る前から自分のパスポートを持ち、学生時代にごく短期間ではあるが海外での生活も経験し、卒業して勤めた先は航空会社。同じように育った弟も勤めた先は航空会社。従姉の一人はアメリカ人と結婚してニューヨークに住んでかれこれ30年以上だ。国際的だとかインターナショナルだといわれるのも無理はない。しかし、我が一族の今でいうグローバル化は我々の世代から始まったのではないのだ。

 母の長姉の結婚相手は中国人。それも今から60年以上前だ。私には叔父にあたるその人は中国人といってもご両親が中国の方で、自身は東京生まれで東京育ちであった。

 その叔父の実家は中華料理屋で、あくまでも身内の証言ではあるが、東京で最初の中華料理屋だったそうだ。戦争で世の中が大きく揺らいだのは日本だけではなく、現在も独特の緊張感がある中国と台湾も同じであった。叔父の実家はそのトライアングルの中で大変だったようだ。そんな経緯もあるためだろうか、日本にいる華僑と呼ばれる方々の総会の役員をずっと勤めていた。日本と中国の政治家同士の食事の席などがあって、主催が中国側の場合にその料理を全て任されたことは数限りなかったそうだ。

 叔父は私にとっては面白い人だった。私が高校1年のときの夏休みの終わりに母が体調を崩したことがあった。それは我家にとっては結構一大事だった。新学期が始まっても母は本調子ではなく、しばらくは自宅での静養と通院を繰り返していた。親戚のお見舞いが続き、学校から帰ると家に親戚の誰かがいる日が続いた。

 一日学校から帰ると母は通院のため不在で家には誰もいなかった。父はもちろん仕事、弟は野球の練習か何かだったのだろう。一人で家にいると玄関のベルが鳴った。出てみるとそこには立派な体躯の男の人が堂々と立っていた。一瞬誰だか分からなかったが、しばらくしてその男の人が小伝馬町のその叔父だと分かった。すぐに分からなかったのは、叔父とは自分が小学生のとき以来の再会だったからだった。

 母のお見舞いに来てくれた叔父は大きなスイカを持って来てくれた。後から聞いた話だか、叔父は大変な美食家で、築地など市場へ仕入れに行くと、店で使う食材以外に自分が食べるためだけのものも入手していたそうだ。

 そのとき唯一家に居た高校生の私がせっかくお見舞いに来てくれた叔父の相手をした。慣れない手付きでお茶を入れて出したのは覚えているが、何を話したのかは全く覚えていない。一つハッキリと覚えているのは、叔父を門まで見送ったときに、颯爽とBMWのオートバイに跨がって走り去っていった後ろ姿だ。海外のオートバイは運転の技術はもちろんだが、大きくて重いので、体力が充実していないと扱えない。叔父はきっと体を鍛えてその立派な体躯を維持していたに違いない。まだベルリンの壁が崩壊する前だったので、そのBMWのオートバイは “ Made In West Germany “ だったはずだ。

 ロサンゼルスのサンセット・ブルヴァードをハーレーで走ってみたいと私が思ったのはもっとずっと後のことで、暴走族全盛の時代に中学・高校時代を送ったとはいえ、オートバイにはほとんど興味がなかった。これを書いているときに、その西ドイツの標記だけでも見せてもらえばよかったと思った。戦争で祖国が真二つになってしまった(中国と台湾)叔父が、同じく真二つになってしまった国(西ドイツ・東ドイツ)のオートバイでやって来たのは、いま思うととても不思議な気がする。

 母の長姉であるその叔母も面白い人で私は大好きであった。今でいうとても自由な人だった。どれだけ自由だったかというと、まだ私と弟が幼かった頃、一度だけ留守番に来てくれたことがあった。我々兄弟は所謂バラエティーをテレビで観たかったのだが、叔母が、「ちょっと観たい番組があるんだけど、いい?」と言っていきなりチャンネルを変えてUFOの番組を観始めたのだ。「叔母さんこういうの好きなのよ〜。」とワクワクした顔をして言った。そう言ったきりあまりにも真剣に観ていたので、私も弟も観たい番組を主張するどころか話しかけられなかったのは今でも覚えている。

 叔母のところへ遊びに行くと、部屋の片隅に「ムー」という雑誌が積まれていた。当時表紙のカタカナだけが読めたその雑誌がどういう内容なのか分かったのはもっと大きくなってからだった。叔母はその雑誌でちょっと異なった方面への旅に思いを馳せていたのだろうか。祖母も自由な人だったので、祖母→叔母→私と“自由な血筋”はしっかり受け継がれている。本が好きでよく読んでいるということも共通している。祖母と叔母がどれほど本好きだったかは、機会があったら書きたい。

 叔父は二年前、叔母は去年亡くなった。二人とも亡くなるまでの何年かは病院にいた。自分が大きくなり、世界中を観るチャンスを得て、出会った人たち、観てきたもの、食べてきたものなどの話を二人とゆっくり時間をかけてしたかったな・・・と二人のことを思い出す度に思う。

 その話から発展して、きっと自分の知らない話を二人からたくさん聞くことができたに違いない。そこから自分の次の旅や思いもつかなかったものの考え方のヒントを得られたかも知れない。今のこの時代に叔母が元気だったら、世界中の所謂パワースポットや神秘的なところへフラリと気ままに出掛けて行ったのではと思う。妹である旅慣れた私の母がそのお供を頼まれるのは想像に難くない。

 叔父と叔母が二代目として切り盛りして三代目の従兄に引き継いだその上海料理のお店は今でも繁盛している。開業して現在65年目に入っている。案内した友人達はみんな後にそれぞれ自分の友人達を連れて再訪している。代々本場から料理人を呼んで来ているので、きっと普段食べている中華料理と一味違って気に入ってくれているのだと思う。その一味は、それぞれが旅先で味わったことのある本場の味、または未踏の旅先に思いを馳せてしまう味なのではと思う。

 店は上海蟹のシーズンが一年で一番忙しくなる。その上海蟹を目指して日本全国から常連が集まってくるのだ。その常連さんたちは、皆さん自分の気に入った味を求めてそのお店を目指して旅をして来る。きっと道中ワクワクし、帰途は翌年の再訪に思いを馳せる旅になるのだろう。

 この三月にその叔父と叔母の法事で久し振りにそのお店を訪れた。従兄が先頭に立って自分の家族とともに取り仕切ったその会は、法事であるにも関わらず、盛大で楽しかった。言うまでもなく全て美味だった料理に箸が進んだ。ご無沙汰していた親戚の面々に会えて話が弾んだので、箸以上に紹興酒が進んでしまった。

 そのお店に次に訪れるときは一人で行って従兄に叔父と叔母の話をもっと聞いてみようか。それとも、以前から行きたいと言ってくれている友人達、この話を読んで興味を持った旅好きの友人達と一緒に行って、東京で築86年の建物で65年も愛されている上海料理を甕出しの紹興酒とともに一緒に楽しもうか。歴史を感じられるその建物の中で、旅先で食べる現地のものを思い起こさせてくれるその味を一緒に味わえたら楽しいだろう。

 その前にこんな素敵な場所を従兄に引き継いでくれて、幼い頃から可愛がってくれた叔父と叔母に感謝しなければ・・・。叔父さん、叔母さん、ありがとう。

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メニューのほんの一部です。手元にこれだけしか写真がないのです・・・(苦笑)。従兄曰く、メニューにあるものとないものを合わせて、出せる料理は数百種類あるとか。ここでは日本の中華料理屋での定番である餃子や炒飯等は食べません。訪れるとメニューを全く見ず・・・というか触ることもなく、従兄に全てお任せにして、このような一品料理を次々と出して貰います。出てきた料理で季節を感じられるときもあります。最近飲みものはビールを最初の一杯だけにして後はずっと紹興酒です。寒いときはお燗をして、暖かくなってきたらロックでいただきます。ここの上海料理は全体的に割と野菜が多めです。興味を持たれた方は、“小伝馬町の老舗”をヒントに旅先で目的地を探す感覚で見つけて訪れてみて下さい。(現在は残念ながら閉店) お店の周りにはオフィスや問屋にはたくさんあります。定休日は土曜日です。

追記:

書き終えてみると、この話は一族の若い世代に書き残すようにと、叔父と叔母によって書かされた気がしました。まあ、こういう伝え方や残し方があってもいいですよね(笑)。今回はいつものように自分が訪れた旅先でのお話ではありません でしたが、読んで下さった方々にはいつものように異国情緒を感じていただけたと思います。いかがでしたか?(笑)


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