君とあの子とその人と彼女のお話

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今日はどうもありがとう。とても楽しい時間を過ごせたよ。さっき君を抱いてた時に言った言葉を覚えてる?少しだけど時間も余ってることだし、煙草でも吸いながらさっきの言葉について詳しく話してもいいかな。あ、君も煙草を吸うんだね。それなら、せっかくだし1本交換しよう。どうせ、君とはもう会うこともないからさ。記念だと思って。いいんだ、そんなに気を遣わないで。ほら、僕が火を着けてあげる。

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ありがとう。もう6年ほど前にもなるかな。確か、割と暑い日の夏だったと思う。あ、そうそう、僕ね、夏はそんなに好きじゃないんだ。単純に暑いのが嫌だっていうのもあるけれど、ノスタルジーというか。嫌な思い出がね。あれは9年前だったかな。早い日の出、蝉の鳴き声、川のせせらぎ、一緒に見た花火の色。あの子の髪の毛の匂い。あの子の華奢な体。あの子の細くて白くて折れそうな指。あの子の服が擦れる音。あの子の中に入る感覚。あの子の喘ぎ声。あの子の吐息。あの子の涙。あの子の嗚咽。あの子の部屋に入ってくる風。遥か下方、鈍い音。誰かの悲鳴。僕が呼んだ救急車の音。あの子の血の匂い。僕の吐瀉物の臭い。鼓動が消える感覚。あの子が消える感覚。思い出したくないのに、夏ってやつが振りまく雰囲気が、僕の嫌な記憶を嫌でも呼び覚ましてくる。その度に、ああ、なんであの時にもっと気の利いた言葉が出なかったのか、どういう態度を取るべきだったのか、一体何が正しかったのか。…考えたくもないことなのに、僕の脳髄は考えることをやめてくれないんだ。それで…

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ああそっか。6年前の話だったね。ごめんごめん、僕は昔から自分の話や好きな物事に没頭してるとどうにも周囲に対する視野が狭くなる癖があって。ついこの間だって…おっと。ありがとう、また癖が出てしまうところだったよ。で、何の話だったっけ?あ、そうだ。君を抱いてるときに言った言葉についてだったね。

僕には大事な女性がいるんだ。それは彼女では無い。いや、僕には将来を誓い合った彼女がいるんだよ?それとはまったく異なる、精神的な第3の支え。彼女を大きな家具に例えるなら、その人はそれが倒れないようにひっそり存在しているつっかえ棒のような。彼女を大黒柱に例えるなら、その人は地味だけど無くてはならない支柱のような。彼女を家に例えるなら、その人はそれなしでは家が成り立たない、土台のような。とにかく、僕にとってはある意味、彼女以上に唯一無二な。その人は、そんな女性なんだ。

その人は、ある時は人生の大半を一緒に過ごしてきた母のような、姉のような。ある時に時折見せる無邪気な笑顔は妹のような。ある時に含蓄ある言葉で人を唸らせる様は天才的なキャリアウーマンのような。ある時は生傷を舐めあうためだけに存在する、都合のいいセックスフレンドのような。はたまた、遍くこの世の闇を照らして、迷える民を導いてくれる女神のような…万華鏡のように、その人は色々な顔を持っているんだ。…あぁ、こうして思い出すだけでもその人はいい女だって思えるよ。

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大丈夫、ちゃんと僕の意識はここにある。さっき言った癖は出してないよ。多分。

うん、時間も残り少ないみたいだし、結果から話すね。お酒の勢いで、6年前の夏の日、僕はその人と身体の関係を持ったんだ。とても綺麗で耽美的で官能的で。それはそれは素敵な時間だった。君との時間とは違ってね。おっと、失礼。一時でも恋人を演じてくれた君に、今の言葉は軽率すぎた。しかめっ面はやめて。無かったことにしてくれ。無かったことにしてくれ、か。さっき話したあの子の時も…わかってるよ。苛つかないで。大丈夫、今見えているのは君だけだから。

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うん。君を抱いていた時の雰囲気が、その人のそれと凄く似ているっていう、さっきの僕の言葉だったよね。何が似ているかって?それは、丸ごと全てが、だ。君の顔も、君の喘ぎ声も、君の男の悦ばせ方も。ただ、感情的な部分を言うなら、多分、いや間違いなく僕と君との間に本当の恋愛感情なんてない。無いけど、君がこの部屋に来てから今までの時間は、間違いなく君は僕の彼女だった。さすがプロだと恐れ入ったよ。そしてあの日、その人も同じだった。あの時、僕とその人は、確かに運命の二人で、かけがえのない、最後の最後の二人だったんだよ。あの子だって例外じゃないんだ。ただ君とその人との違いはボタンのかけ違いってやつで…ごめん、思い出したくない。

6年前のあの日から、僕はずっとその人の存在に頭の中を支配されている。乗っ取られているんだ。寝ても覚めても、働いてるときも、彼女と愛を語らっているときも。ずっとずっと、その人と、時折9年前のあの子が。頭から離れない。離れてくれない。僕の脳髄はいつからか、きっと自分のものじゃなくなってしまった。だから、金の力で、どうでもいい毒にも薬にもならぬような存在で、脳髄を麻痺させて、誤魔化してしまいたかった。だけど、君が来た。その人の空気を纏った君が。君までも、僕の記憶を呼び覚ますのか。一体僕が何をしたっていうんだ。もう嫌だ、消えてくれ消えてくれ消えてくれ。

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あ、そっか。僕に言われなくても、もうホテルの時間が迫ってるんだったね。煙草も、もう根本まで吸い終わってしまった。それなら、迷うことなく部屋を出よう。僕の彼女だった君は、ここから1歩出れば他人になる。それでいいんだ、きっと。君と僕との間には金というストッパーがある。絶縁体のように、下世話な感情にストップをかける絶対的な資本主義の象徴が。金で後腐れない愛を買えるなんてなんていい時代だ。君もそう思うだろう?その人やあの子には、そう思っていて欲しくはないけど。

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うん。君は綺麗でいい女だから、この後も君を求める男たちのために、その身を捧げるといいさ。僕?僕はこのまま家に帰るよ。愛する彼女がいる家へ。なんたって近い将来、僕は彼女と結婚する。愛する彼女と。幸せだ。それを幸せといわないで何というんだ。なあ、黙ってないで「君は幸せだ」って言ってくれ。言えよ。その人に縛られてるままじゃ幸せにならないとかあの子との罪は一生消えないとか君との一夜の事実は消えないって?そんなこと、わかってるよ。僕は僕の罪を背負って生きていく。君と出会えたことにだって、きっと意味があるはずなんだ。どんな意味かは、今はわからないけれど。一生意味を見いだせないかもしれないけれど。

そろそろ時間だ。それじゃあ、君と会うことはもう二度と無いだろうけど。今夜は寒いから、迎えの車が来るまでに風邪をひかないように。

ばいばい、またね。

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