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【小説】カーニバル

 「はいできましたよ、どうぞ」
 熊井はどろんと濁った瞳を配膳された丼のなかに向けた。大盛りの米の上に味噌とくるみで和えられた黒々とした肉がこんもりと盛られている。脇にはごまをふったほうれん草が添えられていた。店内には店主と熊井のふたりしかいなかった。

                 *

 家電用機器の部品を取り扱う小さなメーカーに入社してから7年。熊井は主に総務や経理の業務を担当していた。取引先の無理な要求に急き立てられた営業との軋轢など不平不満もない訳ではなかったが、実直に勤めてきたつもりだった。結婚もせず、職場の同僚とも交流せず、黙々と働き続けている熊井は後輩たちに自分が煙たがられていることを知っていた。それでも、社会を、会社を成り立たせる部品として自分の仕事があるのだと、黙々と目立たずしかし会社にとって欠かせない業務に打ち込んだ。
 数ヵ月前、上司が変わった。上司は熊井の勤務先の親会社から出向で来ていて、もといた会社で次々と部下を潰していったことで左遷されたのだとうわさに聞いた。こいつなら何を言っても大丈夫だから、と会社の判断で自分があてがわれたのだろうと熊井は今になって思う。上司は無茶苦茶だった。業務として飲み込める指導にとどまらず、熊井の私生活を詮索するような問いを事あるごとに繰り返し、気に入らない返答があると「お前それで今までよくやって来たよな、俺がお前だったら恥ずかしくて会社に出てこれないぞ」と面罵した。「あ、これは俺の主観だけど」と付け加えることも忘れずに。
 ひどい奴だと思ったが自分ひとりに向けた嫌味や罵倒ならまだ耐えられた。しかし熊井が淡々と受け流していると、上司は総務部に新卒で入ってきた青年を次の標的にした。一挙一動を舐めるようにデスクから眺め、ささいな誤りに厳しく口出しをした。新卒の青年は次第に委縮し顔色は蒼白になっていった。人事は何もしなかった。何もできない、という雰囲気があった。そんな雰囲気にのまれている自分自身のことが、熊井は厭だった。
 そんななか、ある日の飲み会のことだった。上司は新卒に重い酒を飲ませると絡みながら長い説教を始めた。わなわなと震え、ぐらぐらと揺れる新卒の肩に手をかけ、「お前は自分が可愛いと思っているのかも知れないが、このままではやっていけないぞ、ここでも、どこでもな」とひそひそ声で詰め寄る上司の姿に、熊井は激昂した。上司の後頭部を掴み新卒から引き離すと、「あなたのやっていること、これまでやってきたことはいじめですよね。やっていけないのはあなたの方だ。あなたには人の上に立つ資格がない」と叫んだ。騒然として、一同は店を出禁になった。

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 騒動を聞きつけた会社上層部の処分は冷徹だった。熊井は謹慎を命じられた。圧力があったのか、また何らかの根回しをしていたのか、上司は咎められず、親会社に戻っていった。きっとまた同じことを違う職場でもするだろう。新卒の青年は職場に出てこなくなっており、じき辞めるだろうということだった。熊井への感謝の言葉はなかった。突然むなしくなり、熊井は社宅を飛び出した。これまでの人生で自暴自棄になることはなかったが、だれに慰められるでもなく生きていくことが心底いやになった。これまでの実績を持って職を探せばまた新しい人生を始めることはできるだろうが、どこに行っても上司のような人の気力を削いではばかりない人間はいるものだ。熊井の瞳はどろんと濁っていた。とにかく遠くに行きたい。ここではないどこかへ。半月の光る夜だった。

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 熊井は謹慎中の自宅を飛び出し、目的地も定めず林道に沿って車を走らせていた。どれほど進んだだろうか。林道は行き止まりとなっており、1軒の民家があった。こんな場所に民家があることを想像だにしなかった。カーナビにも表示されていない。熊井が民家から30代後半くらいの、丸顔の女性が出てきた。「お兄さん、こんな夜にどうしてここまで来たんですか?私ここで定食屋をやっているんです。おなか空かせているでしょう?おいしいもの食べてくださいよ、もてなしますよ」
「ごめんなさい。急いでいるんです。できるだけ遠くに行くために。引き返さなくては」会話を始めてしまったことを少し後悔しながらも熊井は返した。
「急ぐって言ったって、どこに?この先に道はありませんよ。まあお入りなさい」女性は熊井の腕をつかみ店内に入っていった。想像できないほど強い力だった。何となく、抗えない感じがした。

 熊井は実際、空腹ではあった。処分を受けてから熊井は食事が喉を通らなかったが、店内はご飯が炊かれ肉が炒められるときの、食べ物が食べ物として輪郭をあらわすにおいが立ち込めていて、空腹であったことを思い出した。
 いま取り扱っているメニューは「ひぐま丼」しかないのだと店主の女性は通告し、手際よく調理をはじめ、10分ほどで「ひぐま丼」が配膳された。

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「これは熊の肉ですか」熊井は問いかけた。
「もちろん。『ひぐま丼』と銘打っているのだから、まぎれもなく熊肉です。ちゃんと食肉処理をしていますよ。まずは一口どうぞ」
店主に促され、熊井は丼を食べ進めた。
 旨い、と思った。熊の肉を食べるのは初めてだったが、よく聞く獣臭さは全くなく、肉の旨みが凝縮されている。添えられたほうれん草の味付けは最小限で、熊肉との対比が心地よい。
 めちゃくちゃな感情で謹慎中の自宅を抜け出してきたことをしばし忘れ、熊井は丼を食べ進めた。気力がわいてくると、上司や無理解な会社への怒りが湧いてきた。俺はいま肉を食べているのではない、怒りを食べているのだ、という感情に熊井は襲われながら「ひぐま丼」を完食した。混乱を沈め、上書きしてくれるような逸品だった。満腹になると次第に眠たくなってきた。忘れていた疲労感がどっと出たようだった。

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 目が覚めたとき、熊井はまだ店のテーブルに突っ伏していた。
「気づかれましたか」店主は食器を手際よく布巾で拭きながら熊井に話しかけた。
「ここで出している熊の肉は害獣として駆除された個体の肉を使っていてね。牛や羊をたらふく食べているようなやつは、おいしいんです。そんな熊いてたまるか、と畜産農家さんからしたら思うでしょうけどね。食べるものが、食べられる。色々な業を抱えて、飲み込んで、それでも生きていくっていうことが詰まっているんですよね」

「そうだったんですか。道理で旨かったわけだ。俺が食べた丼の熊もたらふく食ったのかな」
 「『なめとこ山の熊』って読んだことあります?宮沢賢治の」唐突に店主は聞いた。
熊井はぼんやりとした頭で返した。「ないですね。宮沢賢治は『雨ニモ負ケズ』と、教科書に載っていた『注文の多い料理店』しか知りませんよ」
「たいていの人は、そうでしょうね」
「それにしても、ここはカーナビにも出てこない、行き止まりの辺鄙な場所で、それこそ『注文の多い料理店』ではないでしょうね」
店主は笑みを浮かべて「注文は多くないんですけどね」と言ったあとに続けた。

「熊を撃って生活している『なめとこ山の熊』の主人公は、ある日山の中で熊に問われるんですよ。何が欲しくて自分を殺すのだ、と。主人公はそうしなくては生きられないから熊を撃つのだけど、最後は自分の行いに矛盾を感じたまま山に入り熊に襲われ命を落とす」
「つまり、何が言いたいんです」
「いまあなたが食べた丼の背景にあるおびただしいいのちと、宮沢賢治が熊を通じてまなざした『生きるということ』の業は通底しているんですよね。あなたは…あなたはここに来るまでに、飲み込んできた業があったのではないですか」
 熊井は黙り込んだ。
「あなたも世の中に捉えられ、すりつぶされ、みそ漬けにされ、ぼろぼろにされてきたひとりではないのですか。同時に、あなた自身も世の中を平らげてきたのではないのですか。もう、十分に」
 熊井は黙り込むことしかできなかった。店主は店のテーブルを片付け始めた。
「大なり小なり、生きているって、食べたり、食べられたりすることですよね。遠くに行ったとしても、とどまったとしても」

 そうか、俺はいま不条理から逃げ、逃げた果てで捕食し、また捕食されようとしつつあるのか。注文を付けられたわけではなく、生きていくものたちの定めの中で。不条理という名の、定めの中で。

「今日はここに泊まって、ゆっくり休んでいってくださいね。布団も用意しますからね」店主はすでに人間の姿ではなかった。大きな灰色熊になっていた。

 熊井の姿はその後見つからなかった。今も、駅前の交番に捜索ポスターが掲げられている。