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【小説】Dry and Mighty――poíēsis #1

poíēsis(希)制作/生産


※この物語はフィクションです。実在の人物、出来事、場所、事件とは、何ら関係はありません。


 冬という季節が冬の特質をまだ備えていた時分だった.あの頃彼が棲んでいた築数十年経つ狭い部屋には絶えず隙間風が差し込み,しばしば冬枯れた葉が窓に打ち付けた.部屋からほど近い,街で最も汚れた川にも鴨が飛来していた.びろうどのように輝く風切羽根を隠した鴨たちは汚染された水草を啄み,毒を素嚢に蓄えていった.
 それでも,もはや戻ることは叶わない,現存するかも定かではないあの部屋のことを,私は何度も,何度も,数えきれないくらい思い返しては同じ風景に立ち返っている.

 私たちの身体は私たちの遺伝子の乗り物である.少なくとも私は恩師からそう教わり,強く感化された.私たちの身体は取り換えることができない.取り換え困難な身体を抱えたままに異なる身体の存在を感じたい,という原始的な欲求は,私たち(の遺伝子)が単為生殖ではなく有性生殖という戦略を選んだことのもたらす発作である.発作とは事故である.遺伝子は事故を起こすことでしか,乗り物を新品にすることが出来ない.
 事故のない生とは,乗り換え可能性が失われた一本道なのかも知れない.そこには平行線か,ねじれの位置にある線しか存在しない.終わりは分からない.続いていく限り分からない.

 彼と交際する前の私はそんな一本道を歩いていた.極めて注意深く,厳しく,かつ愛情深く育てられ,自己を厳格に管理すること,悪所を避けることを幼い時期から教え込まれてきた.私にとって私の身体は私が最大限にその特質を機能させるための部品だった.もっとも私は純潔主義者であったわけではなかったし,第二次性徴と前後して欲動は波のように周期的に訪れていた.私も動物なのだと自覚する瞬間は何度もあった.しかしそれでも,私の身体は私ひとりのもので,他者の対象物として存在するということはあり得なかった.あってはならないことだった.
 大学に入ってから講義を通じて知り合った彼と,悪くない,という直感だけを頼りに交際することにしたのは,私自身が私自身の生活史を通じて築き上げてきた変わらなさを揺らがせる契機が欲しかったのかも知れない.

 私たちはまだ学生で経済的には両親の庇護のもとにあったが,つつましくとも理想的なふたりだった.少なくとも周囲からはそう見られていた.交際して1年で彼は両親に私を紹介し,あたたかく迎えられた.私は彼の両親の顔貌や言葉の遣い方に彼を構成した形質の片鱗を認めた.
 快く彼の実家を送り出されてから率直な感想として私は彼に気付きを述べた.彼は満足げな顔で,君の素敵な所も君の両親からの贈り物なんだなって思うよ,と,歯の浮くようなことを言った.決して不快だとは感じなかった.子供らしい無邪気さを好ましいと思う程度しか私の男性観は熟していなかったし,何より単純に彼のことが好きだった.

 私たちは多くのカップルがするような形で最後まで交わることはできなかった.経済的にも心理的にも自立していない状態での望まない事故はもちろん恐れていたが,しかし,何よりも私の身体がその行為をひどく拒んだ.私の成育歴に起因していたのだろうが,今となっては分からない.確かめようもない.
 乾いているんだ,と彼はうまくいかなかった最初の夜にこぼした.私にとって何ら意味を持たない事実の素描だった.控えめに,もしくは乱雑に愛撫されながら,こんなにも乾いているという事実に,苛立ちよりも,悲しさよりも,何だろう,という独立した疑問の存在を認めた.渇いたまま溺れる蟻のように私を求める彼の動きを,俯瞰して冷徹に観察している私が居た.痛みはあった.物理現象として,また,生理現象として.しかしそれ以上に,私は,知覚から遊離し分裂したまま変わらずに在る私の存在を認めた.私はまっすぐに彼を見つめた.

 彼にとっては恐らく私のそのような態度は居心地の悪いものだったのだろう.ひどくうろたえ傷ついていたのが分かった.それでもすぐに失望した態度を撤回し,ごめん,自分本位だった,どうしたらいいかふたりで考えていこう,と言い添えてくれた.不器用なやさしさを感じたので,私はこの時の失敗のために交際を打ち切ることはしなかった.結局「悪くない」とは,そういうことなのだろう.彼は彼自身が言うとおり自分本位だったかも知れないが,私も自分本位に彼との関係性を構築しようとしている.そこには言語として発する以前の,感覚的な合意があるだけだ.
 しかし、この時の私たちはまだ気付いていなかった.私を操縦してきた遺伝子が,私たちが想像するよりも遥かに大きな「事故」の予兆を孕んでいたことに.