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断定のページ

人はいとも簡単に「断定」する。
感染症の専門家でもない者が、強い口調で対策方法を叫んでいる昨今の状況を見ても、それがよく分かる。根拠が僅かであるのに、なぜ断定するのだろう、と思う。問題視しているわけではない。自分も「断定したい愚者」の一人だ。

一般に「~は~である」と断定できるのは、手元にそれだけの情報や根拠を揃えることができる一部の人間だけだ。具体的に言うと、学者や、医者など。肩書きを背負っている「賢者」である。

一方で、何かに対して専門性を持っているわけではない私のような「愚者」は、事象の背景にある前提や文脈を真の意味で理解することはできない。
「ならば、黙っていろ」
そう言いたくなるのも分かる。

それでも、断定せずにはいられない。

事象に対する鋭い批評を、出来うる限り目にとまる表現で発信したいからだ。
たとえ中庸的な意見であったとしても、それをそのまま発信したのでは誰の目にもとまらない。だとしたら、多少の無理があったとしても、極論を断定的に表現したほうがいい。

賢者の振りをするならば、それが一番手っ取り早い。

ここまででもかなりの回数の断定表現を使用した。
実際やってみると、やはり発信に断定表現は不可欠なのだと思い知る。

しかし、一つ問題がある。

肩書きに関係なく発言できる言論空間において、素人の断定が人の目にとまると、もともとあるはずの事象や背景の共有がなされないままに拡散する。
中庸的な意見もまれにあるが、前述のようにそもそも拡散されないため、目にする機会はほとんどない。

では、受け取り手はどうすべきか。
方法は2つある、と思う。

・全ての意見に敬意を払い、誰に対しても聞く耳を持つ
・耳を塞ぐ

素人にとって発信は、注目を集めるゲームだ。AとB、どちらの側について断定すれば票を多く集められるかが勝負。
受け取り手としては、世の言論は全て偏っていると思った方がいい。となると、Aの側とBの側、どちらの意見にも敬意を払い、むしろ背景や文脈を知ることに時間を割くべきかもしれない。

もしくは、耳を塞ぎ、誰の意見にも耳は貸さず、自分の問題に専念することだ。
声の大きい素人に萎縮した賢者は、言論ゲームに飽き飽きしているだろう。

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