Including You

修士設計で身体障害の有無に関わらず誰もが創作活動できる文化施設を提案した、これはその振り返りです。

ずっと、この文章を大渡海に放ってもいいか躊躇っていたけれど、今も迷いながら書いているけど、正解は分からない。もし人を傷付けてしまうとしたら、償いはこれからにあらわれる。

人の最も私的な身体の扱い方に興味本位で近付いて、触れてつくって、良かったのかは、今の私には分からない。世界はなにも変わらない。

先生の誰にも何も伝わらなかったし、新しさもない、理想の環境は既に要綱を練ってつくられている、そういう評価だった。

でも、でもね先生、しかしながら、

誰かが困っている。優しくない環境に置かれて戸惑っている。誰かが自分の身体を思うままに踊らせてあげられない世界がここにも、そこにもある。

だから考えないといけないし、考えたなら続けないといけない。今はそれを伝える力が全然ない。それは私が悪いと、分かっている。

以下は私が修士設計の展示に出したメモの抜粋や原稿を合わせて、ずっと寝かせていたものです。

オチも結論も進歩もないけれど。

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障害は本当に障害なのだろうか。

障害とは生きづらさの延長に名付けられた身体や心の事象なのではないか、と思った。誰しも抱える生きづらさに障害という名前が付いていると考えれば、障害を持つ人は助けてあげるべき弱者ではなく、自分とは世界の感じ方が少し異なる、同じ土の上に立つ人だと気付く。

障害、と一言で片づけるには、人の心身は多様過ぎる。あまりにも「普通」が曖昧で、あまりにも個体差がある。我々はあまりにも違っていて、そして誰もが「生きづらさを持つ」という点で同じだ。障害に意識が向き始めて暫く、そう思うようになった。

もう一度言いたい、つまり覚えていてほしい。私たちはみんなどこまでも全く違っていて、別個の存在でアメーバのように複数が一個になることはなくて、そして同じだ。

同じ土の上に立っている。同じように思考があり、なんらかの身体を持ち、意思があって、欲求を持つ。方法や手段は違っても、目的は同じだ。生きるために私たちは生きている。その為に持っているものが違うだけで。

声を失っても姿形を変えても思考が移ろっても、自分は続いていく。障害と口にする時、憐れみの心が少しでもあるなら、それは本当に間違っている。

(でも、私だって危ういかもしれないということを忘れない。私の使う言葉が誰かを貶める可能性をはらんでいることを、自分の加害性をいつも心に留めておきたい。)

わたしとあなたが違っていて同じだということを分からない限り、本当に分かり合うことなんてできない。分かり合えない社会は、環境は建築は、いつまで経ってもマジョリティの奴隷でしかなく不自由なのはむしろ、そういう土壌の上でいつ取り零されるか怯える我々の方だろう。

お困りですかと手を差し伸べるのもいいが、まずその土壌を均したかった。


修士設計では京都に住む人が身に付ける土地鑑(方角と通りで道を把握する感覚)と、情報取得の8割を占める視覚を活用できない視覚障害のある人が用いる空間認識方法(聴覚、嗅覚、触覚、圧覚、平衡感覚…等々)を参照し、身体的差異に関わらず人が自律した空間移動が出来る環境とはどのようなものか、個々の感性を表す創作活動が出来る制作の場を考えた。

あなたの為だけにではなく、あなたも含められている、建築を目指していく。

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はやしくん、理想ばかり並べて好きなアーティストに嫌われそうだしはずかしいよ。みんなはこれからどういう人でいることにするのかな。なにをみてなにをつくるのかな

今まで私がこの足で立って思うままに歩いてきたこの土壌を耕してくれた、全ての人と環境と時間に心から感謝している。

これからはこの手で舟を編み、大渡海をひらいていきたいという、

胡散臭いきれいごとを小声で言うのが私らしいと思うので、これを結びにする。

さようなら、こんにちは社会。












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