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#1 金持ちの家は無駄が多い


「おはよう、春子」
「遅い!」

AM 11:07
個人所有の広大な土地を揺るがす怒号が響いた。


部屋のど真ん中にある大きなソファの上には、今日も金持ちの娘らしく高飛車で傲慢な小柄の少女が座っている。
職人が手作業でひとつひとつ丁寧に作り上げた高級感のあるソファに、無造作にいくつも乗せられた色とりどりのクッション。それらに囲まれて足を組む姿は可愛いんだか生意気なんだか微妙な気持ちだ。

まぁ確かに今日の僕は始業開始時間より遅れてこの部屋のドアを開けたわけだが、挨拶よりも先に文句が出るのは如何なものか。
▼僕は心の成績表にメモを取った。


僕、阿形藤史朗は現在この小笠原家ひとり娘である春子お嬢様の家庭教師を生業としている。
住居は職場と同じく小笠原邸。世界にその名を轟かせる小笠原財閥所有の大豪邸である。
なぜそんな場所で小笠原の『お』の字も無い男が働いているのかというと、僕がとんでもない天才だから……ではなく、僕が以前この家の長男で次期当主候補筆頭であった小笠原漣氏によって秘密裏に誘拐され、彼の別宅で監禁されていたからである。
七年六ヶ月にも及ぶそれは彼の死によって終わりを迎えたが、世界規模の大富豪小笠原家の次期当主候補筆頭の長男が男子高校生を拉致監禁し性的虐待を繰り返していただなんて事実が公になってしまっては大事。現当主の小笠原幸彦の提案により僕はまた形を変えて小笠原家に囲われている、ということだ。
僕が生存している時点で小笠原の人間にとっては致命傷でしかないのに、わざわざ自分の目の届くところに囲って膿を化膿させるあたりこの親にしてこの子ありというべきか。
とはいえ住む場所や就職先、そして常識の範囲内の自由が確保された今の生活に文句はない。むしろ感謝しているくらいだ。特に返していく予定はないけど。


「遅刻したことは謝るけど僕にだって職場への足取りが重くなる、どこにでもいるサラリーマンのような感覚くらいあるよ」
「また変なこと言われたの?」
「いや、ここの廊下はやたらに長いなと思ってさ」

僕の部屋から春子の住居スペースへと繋がる廊下は長い。山手線の駅2つ分くらいある。
れっきとした出勤である。
そんな廊下を歩くたびに使用人たちの好奇の目に晒され「あれが漣様の…」やら「相当教育されたらしい」「目を合わせたら食われるぞ」なんて不躾な言葉が飛び交うのもまた事実。
この家には年頃の女の子が住んでいるのだからそんな下品な言葉は教育上よろしくないので慎むべき、と家庭教師らしく指摘してみる。当事者のくせに。
一概に否定できないところが憎たらしいが残念ながら僕は面食いなので間違ってもあの使用人を相手に反応するとは思えない。
もう少し痩せて、顎の下のたぷんたぷんしてるの引っ込めてから出直しな!
・・・実のところ、それ以前に僕のは正常に機能するのか些か不安ではある。
閑話休題である。


「嘘ね。当ててあげましょうか?
 んー…、目があったら喰われるぞ、かしら」
「……春子には敵わないね」

この少女は強い。
僕は両手を上げた降参のポーズで許しを請う。
不可抗力とはいえ、中学一年生の少女にそんな世界の残り香を吸わせるのは申し訳ない。
 
しかし春子は、漏れ聞こえてくる使用人たちの汚い言葉にも動じず僕を家庭教師として認めてくれている。
はたしてどこまで理解しているかは知らないが概ね合っているので、僕の汚さも概ね理解しているだろうに、むしろ面白がっている節もあるみたいだ。
これは早急に改善せねば。
▼僕は心の成績表にメモをとった。


実の兄が犯した男と行動を共にする心境はわからないが、自分を犯した人間の妹と行動を共にする心境は複雑だ。
だからきっと春子も複雑だろう。

「勝手に他人の心中お察ししないでくれるかしら?」
「ばれたか」
「ほんと、表情筋弱いわりに読みやすいのよね」
そう言って春子は自慢のツインテールを揺らしながら笑った。

「春子は今日もイニシアチブの頂点を極めていて素晴らしい」
拍手を送ろう。
「シロが私に敵う日なんて何度転生しても来ないでしょうね」
腕を組んだ春子に睨まれた。

特に利用するあてがありません。ごめんなさい。