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「エスプレッソにしたら。」

 カフェに立ち寄った。いつもならティーを注文するがその日選んだのはエスプレッソ。新刊を読みながら時間調整するためだったが、地下鉄に乗り込んでから私は実家にエスプレッソメーカーがあったことを思い出した。五十年以上も前の話である。
 なにか胸に迫るものがあった。それを家に持ち込んだのは亡くなった父に違いないという思いに至ったからだ。
 今でこそ喫茶文化を豊かにするためのツールは個人でも簡単に手に入れられるが、その当時、岩手の県北の田舎町でそれを所有しているのはとても珍しいことだったはず。しかし、東京で大学生をしていた父ならそれは可能だったと思うし、私が子どもの頃にはイタリアの「アモーレ、アモーレ、アモーレ…。」で始まる歌をイタリア語で歌ってよく聞かせてくれた。 
 父のことを思い出す時、重たい気持が軽く通り過ぎる。父が自らの人生に感じていたであろう無念に共振するからだ。
 父が生まれた頃の生家は大変裕福で多くの使用人を抱えて商売をしていた。父は盛岡の旧制中学に入学し、東京の私立大学に進学している。子ども時代は使用人から「お坊ちゃん」と呼ばれていたと後に母から聞いたことがある。
 父が晩年に話してくれたことだが、結婚について当時は許婚(いいなずけ)制度があり、子どもの時から結婚相手は父親によって決められていた。相手方の家には盆と正月に進物を贈り関係を保っていたそうだ。だが、大学生になった父は結婚相手を自分で決められないことに疑問を感じるようになったと話していた。太平洋戦争が終わって間もない時代のことだ。
東京で一緒になりたいと思う女性がいたようだが、その人を残し実家に戻って家業を継いだ。しかし、許婚の女性と結婚することもなく、後に私の母と結婚。そして時代は大きく変化し、一時は隆盛を極めた生家も斜陽の時を迎えることになった。お坊ちゃんと呼ばれて育った父は宮仕えすることを嫌った。学識と行動力はあったが流した汗はなかなか報われなかった。
〈働けど働けど猶わが生活楽にならざりじっと手を見る〉
こんな短歌を子どもの私に聞かせる人であった。
 謎の多い父ではあったが、そんな父を持ったことを今では楽しんでいる。そういえば、私が子どもだったころ父は夏目漱石の本を読み聞かせてくれた。よく聞いたのが「坊ちゃん」今なら笑える。
 子どもを持って思うことだが、親といえども子について知っていることは少ない。子どもだって同じだ。それでも無意識に選択したものが親に縁のあるものだと分かったりすると、本当は知っているのに偶然のことと始末をつけているだけなのではないか、という気もしてくる。
 春のある日、新刊の本を読んで私は父との思い出の中から消えてなくなる寸前の記憶を引き出すことになった。思い出を色に例えればその記憶は薄い色。だが、すんでの所で絵具箱の中に取り戻された。パレットに出して他の色と混ぜてみる、絵筆に取る…。
 エスプレッソメーカーを使って、幼い日の私は泥んこコーヒーを作って遊んだ。金属製の漏斗、小さい穴の開いたフィルター、サーバー、それらはうってつけの用具だった。
近頃は父と語り合う機会が増えたように感じる。
あの日一杯のエスプレッソを注文させたのは父だったのだなと感じながら。

#猫を棄てる感想文  

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