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「鬼滅の刃」の「悪」について

 最近話題の漫画『鬼滅の刃』。自分もAmazonプライムのビデオで最近見てから、ようやく漫画19巻を読み、いま連載中のジャンプ195話まで追いつきました。特に登場キャラクターが魅力的なのは、その人気ぶりからも当然なのですが、作者である吾峠呼世晴氏が詳細に人物の背景も含めて考えられているのは驚嘆に値します。
 集英社の担当編集者のインタビューを読んでもその設定の細やかさに驚きます。これが人気の理由の一つでもあるでしょう。
 現時点まで読んだこの作品について様々考えることがあったので、ここでまとめてみたいと思います。

1.ジョジョの奇妙な冒険との類似点

 まず「鬼滅の刃」の鬼の「人間から派生した不老不死生命体」「人間を超えた能力を発揮する」「吸血鬼のように太陽に弱い」「特殊な技(太陽と似た力)によって死ぬ」などの設定は、荒木飛呂彦先生の『ジョジョの奇妙な冒険』の第一部、第二部の敵、ディオ・ブランドーやカーズなどの柱の一族によく似ています。また、鬼を倒す鬼殺隊の技である「呼吸法」は、吸血鬼を倒す「波紋」=太陽の力を生み出す、というところも近いです。これ自体はもちろん設定の話なので、それ自体がオリジナリティがあるかどうかは問題ではないです。それよりも、面白いのは、そのような「万能な生命体」になることによって、どのようなキャラクターになるかどうか、という点です。

 ジョジョでディオに吸血鬼にさせられるのは2種類のタイプがいます。ひとつは吸血鬼になることで自分の欲望を達成したいという「悪」か、もうひとつは生前の無念を晴らそうと人間に憎しみを持つ存在です。前者は切り裂きジャックのような罪人、後者はスコットランドのメアリ・スチュアートに仕えた騎士ブラフォードです。前者は典型的な悪役なのですが、後者は生前の境遇に苦しんだものの、自身の忠誠心や信念は無くしていないタイプです。

 「鬼滅の刃」の鬼に特徴的なのは、このブラフォードタイプの人物が多く出てくるところです。前者の悪役の敵としては、上弦の鬼の童磨や玉壺で、とにかく戦闘は、主人公サイドの悪に対する憎しみが中心で、相手の悪が大きいほど盛り上がります、

 このように前者との戦いは、単純に少年漫画として「厄介で強い憎むべき敵」になるので、正義である主人公が注目されるのですが、後者の場合は、その戦いだけでなく生前の鬼の生き方に焦点があたるのです。そして主人公の役割は、その生前の鬼の生き方を「鎮魂」することも含まれていて、単なる精神的に成長する強いヒーローではなくなります。

実際、ジョジョには、これほど「敵」が注目されるようなストーリーは、吸血鬼が中心の第一部や第ニ部には出てきません。むしろジョジョシリーズの比喩で言えば、このような人間同士のぶつかり合いのストーリーは、ジョジョの冒険の中でも戦闘が中心に話が進む第六部「黄金の風」でしょう。マフィア同士の戦いとなる六部は、単なる敵との戦いという以上の話になるからです。

2.ゴールデンカムイより若い「青年」時代設定

 同時期に話題になったアニメ化された漫画で「ゴールデンカムイ」があります。鬼滅の刃が大正時代を設定にしているのに対して、ゴールデンカムイはそれよりも数十年前の明治時代の北海道を舞台にしています。時代設定が近い点はあるものの、これらの二作品はほとんど似ていません。

 ですが面白いことに、鬼滅の刃のほうが時代設定が新しいのに、ゴールデンカムイよりも「古い時代の話」の雰囲気があるとネットでも言われています。ひとつには鬼滅の刃自体が、設定からして鬼が生まれたのが大正時代の数百年前の江戸時代であり、武器もほとんど「剣」であることから、過去につながった設定でもあるからでしょう。それとゴールデンカムイにとっては、日露戦争のような大きな時代の出来事が物語でも重要ですが、鬼滅の刃にはそのような外的な社会的な出来事との関連はほぼありません。そのような理由から、大正時代という設定が物語にとって重要ではないということかもしれません。

 ただ本質的に、ゴールデンカムイと鬼滅の刃における、物語の社会設定に大きい違いがあるからではないかと思います。それはゴールデンカムイは様々な思惑を持つグループが政治的に変化しながら争う中で、主人公たちがそれぞれの成長をするという状況に対して、鬼滅の刃においては、鬼と鬼殺隊との戦いは「閉じた世界」であるからです。

 何百年も生きている鬼は別として、鬼殺隊はほとんど若者だけで構成されていて、登場人物もほとんど若者しか出てきません。そして若者が未来のために命をかけて戦うという設定は、幕末の新選組や白虎隊、戦争末期の特攻隊、などを思い出させます。このような「終末観」は鬼滅の刃の特長的なところですが、基本的に大正時代の雰囲気とは相いれない気がします。

 若者が「死地へ赴く」というある種の「はかなさ」をもった純粋な情熱をもとにした話は基本的にアドレッセンス(青年期)の物語です。死と隣り合わせであることの破滅の美しさがそこにあります。鬼滅の刃には、ほとんど恋愛は出てきませんが、それに近い情愛が感じられるのはその若さと死という「はかなさ」からだと思われます。

 だからこそ「キメツ学園」のような自作パロディが成立するといってもおかしくはありません。鬼滅の刃が実際どんなに生き死にのような残酷な物語をあつかっていてもその本質は「青年」なのです。そういう理由から、鬼滅の刃はどこか若さを感じる「なつかしい時代」の印象がある気がします。

3.鬼は「何のために生きるのか」

 さきほどジョジョとの比較において語りませんでしたが、鬼滅の刃には独特の倫理観があるように思います。それは主人公たちとは違って、特に鬼の側で生まれます。なぜなら鬼には人間のような寿命や生命の制限がないからです。そういう人間を超えた際に、果たしてかつて人間だった彼らは、鬼になってから何を求めるのか、という疑問です。この点はもちろん作者の作品に対する倫理観が現れるもっとも重要な点です。

 このあたりはジョジョとの比較で書いた通り、鬼が単純に「悪」である限りは、主人公たちの正義が輝くので、それはそれで少年漫画的な王道ではあります。鬼滅の刃には、もちろんそのように人間を「低い存在」として、卑下し罵る鬼も少なくありません。それに対する主人公たちの怒りが物語を盛り上げるからです。

 しかしながら、鬼滅の刃は、だんだん話が進むにつれて、鬼たちが単なる「悪」ではないエピソードが出てきます。特に上弦の陸や参の鬼たちは、生前に悪意のある人間たちから悲惨な扱いを受けたことに対する「怒り」が発端となって鬼になり、生前の人間に対する想いがその強さにつながっていたからです。

 鬼殺隊は、さきほど言った通りいつも死ぬことと隣り合わせであり、新選組や特攻隊に入る若者のような「死の覚悟」があります。だからこそ、彼らが遺族に残す手紙は「みな似ている(産屋敷)」のです。それは残された人々が笑顔で生きてほしいという希望です。このような言葉は特攻隊へ身を投じる若者が残した手紙の内容によく似ています。これは死が必然である人間の共通の「生きる意味」なのですが、鬼にはそれがありません。

 しがたって「生きることを何だと思っているのか」という問いが、鬼には常に付き纏います。たしかに人間を低い存在として自らの生きる糧にするというのはありますが、それにしても鬼が何のために生きるのかが鬼という存在には出てきません。それは「生きるために生きる」という堂々巡りにしかならないのです。

 じっさい鬼舞辻無惨の血がない限り、鬼には生きる意味は強くは見出せません。人間を多く食べれば強くなるという設定ではありますが、話を読む限り普通の鬼には限界が(響凱のような鬼の話から)あるようです。また、上弦の鬼の参や壱が鬼になってからそうした通り、単に強さを追求するということはあるかもしれません。しかし作者はそのような存在においても根底には違う想いが理由としてあったことを物語で明らかにしています。(ネタバレなので書きませんが)

 またある意味で人間でもっとも鬼に近かった「天才」である、始まりの呼吸の始祖の継国縁壱も例外ではありません。面白いことに彼も鬼と同様に「生まれてきた理由や意味」について悩んでいるところがあります。そしてそれを慰めるのは、決して鬼にはない存在です。このあたり作者が丁寧に描いているのが好感が持てます。

4.鬼舞辻無惨の「悪」の本質

 ジョジョにおける悪の帝王ディオや、鬼が最終的に目指す究極生物となったカーズを例とすると、鬼舞辻無惨はどんな悪役でしょうか。 原作がまだ続いているなかで鬼舞辻無惨という人物についてはまだあまり語られていません。彼は恐怖の対象や憎悪の対象ではあっても、作者はまだ彼が人間であった頃のことを詳細に描いてないからです。

 これまでの無惨の発言からして、上弦や下弦の十二鬼月は、彼の目的である太陽の元でも生きられるような「完全生物」になるための手掛かりを探すことと、敵である鬼狩りを殺すために作られたようです。無惨は鬼を道具や駒のように考えており、彼らにも絶対服従を要求しています。またかつて仲間だった珠世によれば「無惨は鬼が自分を襲ってくるのが怖いからこそ呪いをかけている」と言っており、基本的に鬼自体も信頼はしていません。

 このような絶対服従を余儀なくする悪の帝王である無惨は、典型的な少年漫画の悪役であり、ジョジョ初期のディオに近い感じがします。それだけに正義の主役を際立たせる悪の極北くらいにしか見えません。これはジョジョ第二部のカーズも同様でエイジャの赤石で完全生物となっても、主役を追い詰める絶望的な強さの悪、という見え方です。

 悪というのは少年漫画に欠かせない存在ですが、そのパターンはむしろ決まり切った冷酷無比で残酷残忍で傲慢尊大な「帝王」であり、正義を引き立たせるものでしかないものです。それ自体は鬼舞辻無惨もきちんと継承していますが、「鬼」によって語られるストーリーを読むと、それだけが彼の役割でもないように感じます。

 「悪」の特長は無惨の台詞に端的にあらわれています。彼はまず「変化を嫌う」と言っている。これは逆に言えば変化をしない「完璧さ」を求めるということです。そして完璧さとは「人間の」心理学的に言えば「死」そのものを意味します。それは絶対的で変化がないものの例えであり、「徹底的に自分自身でありつづける存在」だからです。しかし無惨のような「鬼」にとっては、それは目指すことが可能なものです。

 だからこそ、悪というのは変化を嫌うという言葉は、裏を返せば悪であるためには、常に悪を完璧な状態に保たなけれなならない。「鬼」の生きる理由の問いが何度も繰り返されるのは、そのためです。人間は生きるための制限があるからこそ、「生きる理由」を考えますが、鬼にはそれがない。だから常に生きる理由に向き合わなければならない。そして悪は、相手を信用せず、裏切られることが前提で、常に恐怖でおびえている、それだからこそ変化を嫌うのです。

 これに対して主人公たち(縁壱や産屋敷)が象徴的なのですが、変化を恐れる「鬼を笑い」ます。そして「植物のように生きている」。なぜなら悪が求める完璧さとはどうあがいても結局は何も変化しない「死」しかもたらさないからです。それに対して未来を信じているものは、逆にそれを笑うことが出来ます。人間の生は限られており、完璧さからほど遠いのに、です。なぜなら未来を信じることは、そのような「死」からは実はもっとも遠いことを知っているからです。未来を信じる者は「永遠」を知っています。

 鬼滅の刃に家族、特に若い弟や妹のような主人公よりも年下の重要な人物が出てくるのはここに意味があります。産屋敷は鬼殺隊の隊員を「こどもたち」と呼びます。「鬼」にはこのような存在が必要ありません。彼自身が完璧さを目指すからです。しかし人間である鬼殺隊の面々は、自分が死んだ後の後輩や子孫を信じています。これが「永遠」への入り口だからです。実はこれが鬼のような「死」を免れる唯一の方法なのです。

 おそらく作者は、この認識を明確にするために、鬼舞辻無惨が必要だったと思われます。そして彼がどうして結局は挫折するのか、を今後の話の中で彼の過去の生きざまから語られるように思います。

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