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無意識に自分の過去を隠蔽する

※温まっていた下書き投稿です。

僕はnoteにその時感じたことや、言葉についての所感、自分の人生について綴ってみたりしている。
これらを体系的に取りまとめ、記録し、残しておくことで、さまざまな効果が見込まれる。

後から見直した時に、自分の、当時の感情や感覚が想起されるし、当時の感情からその当時、自分を取り巻いていた状況を推測することもできるかもしれない。

しかし、なるべく正直に丁寧に言語化しようと試みているが、多少なりとも文章と現実の間に齟齬は出る。あくまで自分の主観の外を出ない。
そもそも、僕は真の意味で自分というものを理解出来てはいない。
自分の人生を振り返って、選択してきた結果から、自分というものに作用していた思想や属性を合理的に説明がつくようにまとめているだけだ。
意外と人間は自分のことを知らない。少なくとも、人よりも理解はしていると思うが。

以下小坂井敏晶さんの「主体という物語」からの引用である。

行為判断が形成される過程は本人にも知ることができない。自らの行為判断であっても、その原因はあたかも他人のなす行為判断であるかのごとくに推測するほかはない。「理由」がもっともらしく感じられるのは常識的見方に依拠するからだ。自分自身で意思決定を行い、その結果として行為を選び取ると我々は信じる。しかし人間は理性的動物というよりも、合理化する動物だという方が実情に合っている。
筑摩書房 国語総合 現代文編より

この小節で小坂井さんは、同じ色、同じ規格の青い靴下を4つ並べ、どの靴下が良かったか聞く調査を行ったところ、右側の靴下ほど高い評価を受け、その理由が肌触りがいい、丈夫そうだ。などと最もらしい理由を、聞かれた人自ら導き出したことを例に説明している。

また、物語性をつけよう…とする気持ちが働いているかもしれない。
決して嘘をつこうとしているわけではなく、むしろその逆だが、文章を残そうとする自分にかかっているバイアスは、自分では気づきにくいものだ。

次に、若桑みどりさんの「異時代人の目」からの引用である。

誰かごく親しい人間が死んだとして、その死の後に何が残るだろうか。その人間がいつ生まれたとか死んだとか、幾つで結婚して子供が何人いたというような「記録」は厳然として残るが、その人間を深く知っていればいるほど、それらの「記録」は、本当のことは何一つ告げていない。彼が心の中で何を思い、何を愛したかという、本当の彼にとっての「真実」は、もう誰の目にも届かなくなってしまった。その人間が日記をつけていたり、未亡人や親友が回顧録を書いたりしても、それらの文献はただ一面の真実に過ぎず、書かれなかった、さらに多義的な真実をかえっていっそう隠蔽し抹殺してしまうという作用をする。
筑摩書房 現代文B より

この場合、僕は未だ生きているので、真実は常に今の自分自身にある。しかし後の記述は、noteの記録とその当時の自分自身に当てはまる。

僕が、自分が人生で成してきた選択の結果に合理的な説明がつくようまとめる時、そこに物語性を付けるような心の働きがあるのか…それらは他の真実を隠蔽してやしないか…本当のことは分からない。分かるのは、自分の人生を回顧するとき、そういった危険性を常に孕んでいる。と言う事実のみである。

僕にできることは、なるべく正確に言語化できるよう努めること。のみである。

まぁ、でもそんなに常に難しく考えてもないです。noteに書く話は、日常生活で人としないような話。日常的な、自分の人間関係を作る上で人とする会話は、相手との関係性や相手の状況、キャラクター、相手の興味などにより、話題も言葉も選ぶので、一連のまとまった思考や記録を残し、発信する上でnoteを活用しています。
noteがなければ、知り得なかった人達も多くいるので、僕にとっては貴重な媒体です。

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