「ありふれた演劇について」38
今年の秋に予定している新作公演に向けて、自分のための整理の意味でも、今頭の中にあることを書いておこうと思う。タイトルはまだ仮だが、『幸福な島の夜』という(会場である、こまばアゴラ劇場のwebサイトにはすでにタイトルの情報が出ている)。「夜」というのは、そもそもの発端が「フィルム・ノワールみたいなものを書きたい」というイメージから始まっているので、「ノワール」から連想される「夜」をつけたわけだが、往年のジャズの曲やアルバムのタイトルっぽいなとも思っている。
ちなみに、2019年に同じこまばアゴラ劇場で、『これは演劇ではない』という企画に参加したときのタイトルも(これは円盤に乗る派ではなく、カゲヤマ気象台の個人名義だったわけだが)「幸福な島の誕生」といった。かといって直接の続編というわけではなく、独立した作品になる予定だが、どこかしらの世界観やテーマは引き継がれるものと思う。その「幸福な島の誕生」は、マイルス・デイヴィスの『クールの誕生』というアルバム名がかっこいいなと思ってつけたもので、どことなくジャズのイメージをもっているという意味でも、ふたつのタイトルは共通している。
「幸福な島の誕生」の戯曲は、円盤に乗る派の通販サイトでも販売中の『これは演劇ではない DOCUMENT BOOK』で読むことができる。自分でもかなり自信作なので、興味ある方はぜひご購入ください。
さて、なぜフィルム・ノワールなのか? と言えば、おそらくそれは「秘されているもの」に対する関心から来ているのだろう。典型的なフィルム・ノワールにおいては、「事件の真相」や「過去」や「ファム・ファタールの本当の顔」といったものが隠されていて、それらが暴かれて終わる。主人公が暴く側のこともあるし、隠す側のこともある。隠されていることは、隠されていることに大きな意味があり、暴かれることに本質的な意味がある。「暴かれ」はいつも作品の本筋であって、枝葉にはならない。「秘されること」と「暴かれること」がそのまま劇的な構造を生み出していることが、まさにフィルム・ノワールの特徴だと言えるだろう。
それでは、ミステリーは違うのか? と思われる方もいるかもしれない。自分は熱心なミステリーファンではないので、これはあくまでも個人的な感覚に過ぎないのだけど、自分がフィルム・ノワールに惹かれたのは「主観」の概念であって、これはミステリー全般の特徴とは言えない。フィルム・ノワールで描かれる世界はあくまでも主人公から見える世界であり、いくぶん歪んでいることもあるし、「正しい」世界ではないかもしれない。犯罪に手を染めるようなインモラルな主人公像が可能なのは「主観」に依った一人称的な表現によるもので、展開される事件も客観的な事実ではなく、あくまで主人公から見た出来事として表現される。
主観に基づく不確定な世界の中で、秘匿された事実が顕現化し、大きな衝撃が生まれるが、しかしそれもまた主観に基づく事実に過ぎず、客観的な判断が宙吊りになる。そういう意味では20世紀初頭の「意識の流れ」によるモダニズム小説や、フィルム・ノワールとも共通するハードボイルド小説であるとか、『ブレードランナー』や『ニューロマンサー』といったサイバーパンクの作品群も同じような問題圏を扱っているだろう。
さて、ではなぜあえて今、そのような「主観」と「秘匿」についてテーマにしようとしているのか? そして、どのようにしてそれを演劇的な問題とするのか?
前者の回答としては、もはや現代においては統一された客観的事実などというものは存在せず、ばらばらで不定形な世界観の方がリアリティを持ってしまっていると感じているからだ。身近な例を挙げるなら、ウイルスの変異で社会のルールは変わり続けるし、SNSの風景は経営者の交代によってすっかり違うものになる。わずかな変化で見える世界は全く姿を変えてしまうのに、その原因は非常に捉えがたい。ウイルスの変異は完全な偶然にすぎないし、企業の経営者はきまぐれなマネーゲームによって替わってしまう。大小さまざまな欲望が複雑に交錯して、まったく思いも寄らないところに結果が現れ、時によって常識はずれな政治家が議席を獲得したり、誰も望んでいないようなルールが生まれたりする。そのような世界では、道徳や法律のような統一的な基準は本質的なものではなく、形骸化してしまう。
道徳や法律はリアリティを失って、ただ自分の見えるものと欲望こそがリアル、ということになれば、犯罪はまさにそのリアリティに肉薄する。このリアリティは、あくまでの主観の世界によってしか現れない。そして主観の世界は、秘匿されるものと暴かれるものによって二分化している。自分の知らないもの、認識できないものはいつも秘匿されるし、知覚した途端にそれは必ず暴かれるわけだ。
しかしその主観を抱く自己というものも、実は絶対的なものではない。自分のことは全てわかっている、などと言いきることはできない。過去の自分の行動がまったく理解できないこともあるし、今の発言が常に自分の本心と言えるのかどうかは、たとえ自分ではそのように感じていたとしても、結局はわからない。まるで何者かに操られているような感覚に陥ることもあるし、自分が複数人いるような気がすることもある。果たして自分が、同じ状況において常に同じ行動を起こすかどうかもわからない。そうなれば、自分というものを統合する何かが存在するかどうか、信じきることができない。
客観的事実の崩壊と、自己への不信は根を同じくしているのではないだろうか。主観的にしかいられないが、しかしその主観も信じることのできない不安に常に苛まれているのがこのリアリティなのではないだろうか。そうなれば、秘匿されるものは、主客いずれの領域にも関係なく存在する。そしてどこにあったとしても、秘匿されるものは決して触れることができず、何の影響も与えることのできない絶対的な「他者」だ。これを「不気味なもの」と言い換えるならば、まさに自己の中に不気味な何かがあるというようなこと、あたかも自分が最も不気味な他者であるような感覚が、常にある。
そして、そのような不気味なものを扱うことこそがまさに演劇的な問題なのだと考えている。俳優が演技をする。なにか別のものが見えるような気がする。通常であれば、それは役なり風景なり、ありふれたイリュージョンとして了解されるだろう。しかしよくよく目を凝らしてみれば、こんな不気味なものは他にないと言える。
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