「ありふれた演劇について」34
先日、範宙遊泳の山本卓卓さん、かもめマシーンの萩原雄太さんと「架空の現代舞台芸術協会を構想しよう!」というスペースを開催した。
経緯はこちらのコメントに書いてある通りなのだが、昨年度まで助成を受けていたセゾン文化財団のアーティスト交流会があり、そのファシリテーターを私が務めることになった縁で実現したものだ。ファシリテーターと言ってもそんなに大げさなものではなく、場の司会進行という感じではあったのだが、キャリアもジャンルも多岐にわたるアーティストたちがフラットに交流するためにはどうすればよいのだろうと幾分頭をひねった。
これまでパーティーのような場であるとか、公演やフェスティバルに行ったときにロビーなどで(多くは共通の知人を介して)初対面のアーティストと会話をしたことはしばしばあるが、たいていはどこかよそよそしく、何か虚勢を張るようなところもあった。もちろんくだけたシチュエーションもあるにはあったが、なにしろこれは立派なホテルで開催される、財団主催のパーティーだ。友人の花見とは違う。しかし緊張して当たり障りない会話をして終わりになってしまっては、せっかくの機会がもったいない。なるべくいろんな話が花開いてほしい。そこで、参加募集のお知らせにこんなメッセージを書くことにした。
どんな立場だとしても悩んでいないアーティストはいないだろうし、悩みを共有できる環境も少ないだろう。多くのアーティストが少なからず孤独を感じているに違いないのだけど、「孤独なのだ」と言い出すことも難しい。ひとまず、ファシリテーター(座長)の方から「悩んでいるのだ」と発信することによって、みんな孤独であり、悩みを抱えているということを共有していけないかと思った。そのためかわからないが、グループに分かれて行ったディスカッションの様子を見ていると、年長者が若手に訓示を垂れるということはほとんどなく、誰かの悩みをひとつのテーブルに載せて全員で考えるような場になることが多かったように思う。
先述のスペースの提案者の山本さんも、その場の全員が悩みを共有してくれることに安心したとのことで、そうした場所をもっと広げていけないかという考えが「新しい舞台芸術協会を作る」というアイディアにつながったそうだ。自分のやったことが人に影響を与えられたことは単純にファシリテーターとして非常に嬉しかったが、それ以上に、そうした「弱さを開示し合う」場所が重要だということを共通の問題意識として持てたことに、この会を開催した意義を感じた。
スペースの中で、山本さんは「精神的に健康でないといい作品は作れない」という趣旨の発言をし、私もこれに同意した。あくまでも自分の場合だが、精神的に落ち込んでいるときは作品のこともあまり考えられないし、新しい発想を求めることもできない。言葉から別の言葉へ飛んでいくための筋力も衰えるし、妥協して手癖で済ませてしまうことも増える。そもそも意欲が衰えて、創作そのものの心理的ハードルが上がってしまう。稽古場においては、俳優と粘り強く対話をすることを放棄してしまいがちになるし、判断も雑になる。時には場の空気を悪くしてしまうこともある。もちろん、「健康であらねばならない」というのもひとつの強迫的な観念だが、環境によってそれが改善できるのであればそれに越したことはないし、逆に何かの要因によって負荷がかかっているのなら、それは取り除かれるべきだ。
歴史に目を向ければ、これまでのアーティスト同士の連帯は、主に外部に対して行われてきた。連帯するということは政治的なことだし、政治的になるためには、外部と対話するための共通の言語をもたなければならない。政治家に対してロビー活動をするのもそうだし、公共性を掲げて市民に語りかけるときにも、政治というものは働いてくる。政治はどうしても内と外を分けてしまうし、内にあるものは「ささいなこと」「本質的ではないこと」にされてしまう。しかし、そのようにして見落とされてきたこと、無いことにされてきたことにこそ目を向けるべきだし、むしろそこにこそ別の「政治」があるに違いない。
マーク・フィッシャーは『資本主義リアリズム』の中で、メンタルヘルスの問題を単なる疾病で済ませるではなく、政治的課題、政治的闘争の場にしなければならないと説いた。それはメンタルヘルスが個人の問題ではなく、あらゆる社会の構造と密接に結びついているはずなのに、そのことが隠蔽されて単なる脳内物質の問題に矮小化されてしまっていることに対しての異議申し立てであるが、こうした観点からも「ささいなこと」「本質的ではないこと」を切り捨てる社会構造の問題点や限界が露呈していることは明らかだ。舞台芸術関係者が新たに連帯をするのであれば、これまで見落とされてきた領域を再政治化していくことも視野に入れられるべきだろう。
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