"私"の在処

最近実はインターネットに若干嫌気が差している。

当然のように私は毎日SNSを見ている。その行為は欲求を満たすためにあり、その瞬間の私は効率と検索結果を求める作業に従事し、気づけば時間は溶け、欲望の波に私の心は呑まれる。

時々、人の欲望の波がもたらすものがとてもグロデスクなものに見えてしまい逃避したくなるのだ。あるいは見えやすくなったのかもしれない。

具体例は伏せるが難癖をつけたりマウントを取る、晒上げる、あるいは本質以外のことに目をつけて攻撃する人々に嫌気がさすことが最近は増えてきた。追記すると、呆れるような食べ物を無駄にし、それに関わる全ての人の努力、家族が当人のために築き上げたものを一瞬の欲望のために全て無に帰すような行動も見受けられ、呆れというよりも諦めの感情が近い。インターネットは自由な場所ではあるが、それを使うにはある程度のルールや、(1人や2人ではない、不特定多数の、それも場合によっては何十万といった単位にもなりうる)他者の"監視"という存在があることは示唆されていた。

以前はこういうことは気にしていなかった、臭い物に蓋をするようにスルーしていたのに読んでいた本の内容とリンクしていたからたまたま意識付けされただけかもしれない。あるいは意識せざるを得ない状況に世間がなったのかもしれない。

とにかくこういうナーバスな時はいろんな行動を起こしたくなるが、私の場合は無性に筆を取りたくなる。あるいは音楽を聴くこともあるし、寝ることもある。最近はそれに読書というレパートリーが加わった。

私はかれこれ5年ほど本格的に書道をやっているが、筆を取って書くという書道という行為において、最初からうまく書けることは稀である(個人差あり)。けれどそうして法帖や自分の書きたい文字をどのように構築しているか画仙紙と向き合っていると何事にも代えがたい謎の充実感を感じる。

今日はもう時間も遅いのでグレン・グールドのゴルトベルク変奏曲を聴いてグレン・グールドを召喚した。その息遣いまで聴こえるスピーカーだが、親戚の家で聴いたレコードにはとても及ばない。バッハの創った神への捧げものを聴いたり、カリンニコフの民族的旋律と西洋的管弦楽の融合を聴くことでも、アニソンを漁ったりライブに行くのとはまた異なる謎の充実感を得られる。
最近活字は苦手だが、読書も始めた。その効果が否かはわからないがnoteも始めて自分の思ったことをメモ書き代わりに書くこともあり、今のように自分の行動を見つめ直して知識をつけた気分に勝手になっている。

こうしてインターネットの速さと無縁の完全に自由な時間軸に移動することでもしかしたら自分を取り戻せている(賢者タイム)のかもしれない。





けれどそんな私はすぐ消滅する。というのも翌朝にはスマホを開けてtwitterやニュースサイトを開いて最新情報に興奮してからゲームにログインして1日が始まる。仕事のある日は仕事をとりあえずこなし、移動時間でデジタルの世界に入り浸り、休日なら多めに見る。そのような輝く電脳世界が私を呼んでいるし、何よりその世界に行くことがP(プロデューサー)、キヴォトスの先生、セカイの住人とも称されるのゲーマーとしての私の存在そのものである。

そして、電脳世界に飽きるとまた書やクラシック音楽、時には伝統芸能の世界や読書へいざなわれる。
そのような反復横跳びを繰り返しているのが今の自分である。

なんか変だな。このようなことは今まで幾度となく繰り返していたのに真面目に書きおこしたことはない。そもそも文章を読むのも書くのも不得意で面倒くさがるズボラな人間なのに。

私の在処はどっちの世界だろうか。でも楽しいこともあるのでこの名義を使う間は電脳世界に存在している、ということにしよう。

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