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書への回帰

年末だし(?)私が一度離れた書の世界に戻るきっかけとか出来事とか覚えている限り適当に書いていこうかな

きっかけ

私は中学高校と書道部だった。小学校は理科実験とかやるクラブにいたので関連性は全くない。入った理由は単純で「ヒマな時間が多い」「先生に隠れてゲームができる」という不純な理由であった。しかも小学校の頃は書道は嫌いだった。何であんな書き方をわざわざするのかわからない!ちゃんとした書き方で書かないとダメじゃん!それに何か堅苦しくてめんどくさそう!という誰もが抱くような印象を抱いていた。

しかし、いざ入って先輩や先生の作品を見てその印象は一変した。

書の世界はあまりにも"自由"だった。

「福雲」:先生や先輩の作品は流石に無断掲載できないから私が書いたもので代行

作品や文字の大きさは大小様々。書体も篆書隷書から行草楷書、仮名や漢字かな混じりや前衛書まで。作品形態も古典作品の臨書から創作まで。

とにかく"自分の書きたい、伝えたい"をこんなに自由にやってもいいのか!当初抱いていた堅苦しく枠にはまっているもの、という印象はなかった(規則とかが完全にないというわけではなく、テクニック的には遵守しないといけないコツはあるので、あくまでも作品の幅という視点での話である)
そして練習すればできるのか!と自分ものめり込んだ。

挫折

ところが高校1年の頃、その糸がふっと切れてしまった。
理由は「同級生がうますぎた」と当時は思っていたが実情は私の怠惰さにある。

私は当時も今も、色々なことに興味を持つタイプの人間で、よく言えば多趣味だけど悪く言うと三日坊主。そんな人間である。
当時は昔習っていたピアノを弾いたりもしていた。今もヒマな時があったらたまに弾くが上手くはない。それからクラシック音楽も聴きに聴いていた、ニコニコ動画を見ていた、などなど。。。
そんな風に私が当時いろんなことにうつつを抜かしてフラフラしている間に同級生にあっという間に実力を抜かれてしまって完全に自信喪失してしまった。
それからしばらくの間書に関心も示さず幽霊部員のまま高校生活を終えることになってしまう。

再会

それから月日が経ち、大学では書と縁もゆかりもない野外活動サークルに入って何となく過ごしていた。書道サークルがあれば入ろうと思ってはいたけれど、そんなサークルはなかったから続けることはなかった。
そんなある日、友達から高校の顧問の書展に見に行かないかと誘われた。正直当時は熱も冷めていたしそんなに期待はしていなかった一方で今みんながどんな感じなのかも密かに気になっていた。

そこで見た書展の景色は数年前と何ら変わっていなかった。この変わっていなかったことが良かったのかもしれない。皆が思い思いのままに書いた作品を見ているのはとても気持ちよくもあり、自分もその中に入りたかった。友人はどうやら顧問に月1~2回くらい習いにいっているみたいだった。ならば自分もと思ったがあまりにも立地が悪い。なので近所にある漢字専門※1の書道教室に通い始めた。

筆の持ち方は覚えていたけれど最初に書いた文字は酷い有様だった。それに周りの大人は私より何倍もうまかった。けれど私と違って昔やっていたわけではなく、年を重ねてからふとしたきっかけでやってみようと思った人の方が多かった。
すぐに結果が出なくても経験を重ねればうまくなる、昔の自分は生き急いでいたのかもしれない。そう信じて私は少しずつだが月3回習い始めた。うまくいくほど段があがるシステムもあったおかげで私のモチベーションは絶好調をキープして気づいたら正師範になっていた。三日坊主だったりいろんなことに目移りする自分としては中々珍しい※2

※1 仮名は専門の先生がいなかったand自分は漢字、特に行書が好きだから
※2 当時からずっとアクティブでやっているゲームは一つもない(ミリシタは確か翌年から)。ただしクラシック音楽や野球観戦の趣味はもう染み付いていたのか離れることはなかった。

未来

こんな感じで紆余曲折ありつつもなんだかんだで今も書道を楽しんでいる。
書表現に正解はない。その答えはすぐに見つからないし失敗も多い。事実私がこれまで書いてきたなかで満足のいく作品はほぼない。今に至るまで後で見直すと自分でダメ出しを繰り返している。
そんな書道が最近自分の拠り所となる割合が増えている気がする。

自分の心の拠り所は沢山あってtwitterのプロフィールに

雑多なアカウントです 志保響美希海美/蘭子唯/上田麗奈/書道(正師範)/RAS/プロセカ/SB69/野球/De/牧秀悟/ラブライブ/電音部/いろんなアニメ/クラシック音楽/ブルアカなど

と書いてあるが何も間違っていない。もともとtwitterのアカウントは大学入ってから知ったアイマス交流用だ。いつの間にか他の話題が浸食しているのは事実である。

最近インターネットを見ていて"書くこと"の価値についてモヤモヤすることが多いのは事実で、そのモヤモヤから逃れるために時間がかかる"遅い"、いわば時代遅れのテクノロジーである書道に回帰したいと深層意識を呼び起こしたのかもしれない。多分
この辺は私の豆粒ほどの語彙力ではうまく言語化できていないのでそのうちできたらいいと思う。

私にはまだまだ人生の残りの年月がある(と思いたい)。その残りの時間でいろんなことに目を向けつつ、できるだけ多く自分も見る人も満足させられるような作品が書くことができたらいいな~と思う。その目的のために来年も練習を重ねていきたい。

万が一これを読んだ人が1人でも多く筆をとって墨をつけてみよう、あるいはまたやってみようと思ったら本望である。

あとがき

機械的アルゴリズムや効率化によって文字を書くことだけを重視していくと、書の持つ美しさや枠にとらわれない自由さから距離を取ることになってしまうのでたまには近づいてみるのはどうだろうか…と思ったのがよくよく考えると、その距離があるからこそ、もしかしたら書は輝きを持つのかもしれない。twitterのプロフィールにあるように私はケータイで遊ぶこともPC見ることもめちゃくちゃ多い(というか平日はそれしかできない)ので、書と距離を取ったり取らなかったりの往復運動を繰り返していることになる。この往復運動の頻度は完全にバラバラで、テスト前日に急に部屋掃除を始めるようなものである。こういう突発的行動を駆り立てる自分の意識って面白いし、それを無意識に認識して行動に移す自分に対しても不思議だなぁと思う年末の朝である。
結局のところ自然界の中に生きる存在である俺達にとってはこの言葉が真理なのかもしれない。


行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。


おわり

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