Come Out To Show Them――当事者とのロビイング経験から その3

その2 https://note.com/northloungeradio/n/n5ebb7c64ab00

3-2 だれの言葉でもない文章

前回、それによって自分たちの正しさを証明するのだという間違った観念で、マイノリティを「被害者」としつづける運動の腐敗について書いた。

加えると、矛盾するようだが――これはマークやかおりさんに話したことはない――運動の語りの「型」をつくることは、被害との関係で、半ば意識的にしてきた。要望書を、たたき台をもとにあーだこーだ言いながらみんなでつくると、自然に、だれの言葉でもない文章ができあがる。その場で一から自分の考えや気持ちを表現するのは、だれでもむずかしい。要望書をつくると、みんなの共通認識というものができるし、伝えたい自分の考えも浮かんでくる。心構えと語りが生まれるのだ。この語りの「型」は、自分の生の考えや感情とピッタリしているわけではない。だからこそ、大切なこころをしまっておける。

そう考えた。

3-3 短期的勝利をつみかさねる

これは、311以降の社会運動に特徴的な規範なのかもしれない。なにか大きなイシューを共有するゆるいつながりがあり、1点共闘で、その企画にノレたら参加するし、そうでなければ参加しない。しかしもちろんインフルエンサーたちがいたり、団体が結成されたりする。だが、その団体も、なるべく平たい関係がつくれるように工夫する。たとえばC.R.A.C.に代表はいないし、NORTHにもいない。形式的な代表がいないからといって、必ずしも平たい関係をつくれるとは限らないのだけれど。

さらに、その企画は、なるべく都度都度、勝利することを目指す。NORTHがまだふたりだった頃、もう一人のメンバーとケンカしたことがある。ヘイトデモに、なんでもかんでもカウンターをかけるべきではない、と。2014年当時、さっぽろでは、いまでは想像できないかもしれないが、月に1、2回のペースでヘイトデモがあったのだ。月に2回もカウンター抗議をするなんて、みんな疲弊するに決まっている。われわれマジョリティが、ただ単に「ヘイトデモにムカつく! 」という初期衝動で抗議をしているのはそのとおりなのだけど、同時に効果的であるべきだと思っていた。

では、本当に一回一回、抗議側が勝っていたのかといえば、とくに初期はヘイトデモが何十人で、こちらは片手で数えるほどだったのだから、そうともいえない。しかし、その後、人数がふえて、2、3年で在特会北海道を解散させたのだから、いい線は行っていたのだと思っている。

自己満足ではなく、ぜったいに勝利する、と誓う。遠大な目標ではなく、なるべく一回一回勝つ。「勝つ」がなにかということも大事で、「ヘイトスピーチを可視化する」は毎回、最低限の目標である。人数が少ないことが事前にわかっている場合は、抗議側の安全とヘイトスピーチの可視化の意味をよくよく議論することが多い。小野寺のウポポイツアーに行き合う作戦も、そんな感じだった。

4 結局は...

アイヌ施策推進法のロビイングでも同じである。わたしたちにはアイヌ差別を禁止した第4条において、ヘイトスピーチも禁止されるようにする、という明確な目標があった。そして、実際にその目標は達成され、しかも「民族としてのアイヌなんてもういない」がヘイトスピーチであると、政府委員の答弁を引き出すことができた。大勝利である。

かおりさんは連日のロビイングでヘロヘロで、これで勝てなかったら大変なことだった。しかも、わたしは採決の朝、疲れて起きれなくて傍聴できてないので、またしてもかおりさんに頼っていた。

...このエッセイのようなものの結論は、いろいろ悩んでいても、結局、かおりさんに頼っているわたしの不甲斐なさを曝け出して終わるのかもしれない。そして、むしろ、それが正直なところなのだと思う。これからも、さっぽろのヘイトスピーチをなくすために、さまざまな課題があるが、マジョリティにできることは、カウンター抗議のときと同じように、非対称性をいつも意識し、工夫していくこと、だろうと思っている。

最後になりますが、小松原 織香の『当事者は嘘をつく』をぜひお読みください。このエッセイがつまらなくても、この本は必読です。

※性暴力をめぐり、“サバイバー”の心理描写、特に支援者に対するものが生々しく描かれているので、フラッシュバックを引き起こすかもしれません。


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