コミュニティは嘘によって産まれて嘘によって滅ぶ

ここ最近、カードゲームばかりやりすぎて、あまりコミュニティの人感がなくなってしまった自称日本スモールコミュニティ協会の北です。

(↓日本スモールコミュニティ協会については下の記事をご覧ください。僕の思うコミュニティの理想ってやつです。)

昨日、わりといい感じじゃないか?と思ったnoteが去年書いたnoteよりもアクセス数で負けていて、うーんと思った次第です。

↓昨日書いたnote

↓昨日書いたnoteに勝ってしまったnote

立ち上げたコミュニティが自分の意図しないところでカルト化してしまう悲劇について考える

こういうタイトルの文章で、実際に存在しているカルトの悪口を書いたりしつつ、「このコミュニティしかない!!」と思っている人が勝手にコミュニティをカルトにしてしまうことについて書いていきました。

これに味をしめたので、改めて悪口を交えながら続編的な内容を書いていこうと思います。

ただ、前のやつを読んでいなくても楽しめる内容になっているのでご安心を

「誰かの課題」を考える上での罠

前回、何かの課題を解決するために!の文脈で自分たちのコミュニティを発信していくことで、外側から見られる内輪感を打破できることを書きました。

で、今回はこれに関しての落とし穴について話していきます。

その落とし穴とは「みんなの課題」で紹介される課題です。

「みんなの課題」とは、全人類、日本国民、日本の若者世代など、大きな主語で語られる課題のことです。その課題が本当にみんなの課題であるかどうかは関係ありません。大きな主語で語られていることが重要なのです。

大きな主語で課題が語られる場合、その要因の設定には大きく2種類あります。

一つは一人一人の意識の改革。一人一人がこういうマインドでやっていけばいい!自己啓発とかでよく聞くやつですね。今回の結論もたぶんこれになります。

もう一つは一人一人に影響を及ぼす諸悪の根源への批判。安倍政権がーとか、NHKをぶっ壊す!とかのそれです。

どちらにしても、話はわからなくないですが、そのどちらに対しても「彼らが絶対に敵であるとは限らない」の前提をもとに議論を組み立てていかないと、また別のカルトを産むことになります

敵を作り出したほうが仲間は集まりやすい

Mr.Childrenも「時代とか社会とか無理にでも敵に仕立てないと味方を探せない」(「ランニングハイ」より)と言っているくらいに、人を集めるために特定の敵を作り出すことに甘えてしまう人が多いです。

実際、僕も結構敵を作ってきました。しんどくなったのでやめましたが。

ただ、コミュニティを作る上で好きなもので集まるよりも何かしらの敵を作って集めた方が集まりやすいのは確かです

例えば、好きな人を他の人に言うよりも、誰かの悪口の方が言いやすい人って多いと思います。炎上が盛り上がったり、悪口youtuberが結構いたりするのがその証明ですね。

また、どれだけの偉業を成し遂げたとしても、たった一つの悪いことで台無しになってしまう人たちがいるように、何か一つアラが出てくるだけで、人は平気で会ったこともない他人を嫌いになれます。人間が何かを好きになる理由はたくさん必要ですが、嫌いになる理由はたったの一つで十分なのです

社会問題のために行動した時に発生するジレンマ

大きな仮想敵をつくりあげ、あるいは仮想敵を本当の敵だと思って行動を始める人は多いでしょう。

そのアクションとして、誰でもできそうなものが「同じ意志を持ってそれについて語り合うこと」学生団体でよくあるヤツですね。

ただ、しばらく行動をしたり、ふと立ち止まって考えてみた時に、自分に便利をもたらすものをその敵が作っていることが多いことに気がつきます。

労働者の賃金を上げろ!という人ほど牛丼や激安スーパーにお世話になっているでしょう。

敵の排除を叫んでいるのにもかかわらず、敵の援助なしでは生きていくことができないジレンマに悩まされてしまいます。

それに気づいてしまったときに、その批判の熱は冷めてしまいます。

こうなったときの分岐は三つ。新たな敵をつくるか、他の人が気づかないように隠すか、課題をピンポイントに絞ってそれを解決するための活動をしていくか。

ジレンマという爆弾を抱えたまま組織の運営を続けるということ

新たな敵を作れば熱は保つことができますが、既存のフォロワーとのすれ違いは必ず発生します。また、終わりなき闘争に心身を消耗させることも必至です。

むりに隠そうとした場合も、見えてしまっているものを無理やり隠そうとすれば、必ず抵抗が生まれてしまいます。敵がやっている不当な行動を、目的達成のために自らの手で進めてしまう最悪のケースもあります。

それを乗り越えても人がついてきたとしても、それはもはやカルトです。

ジレンマが見えてしまった時点でだいたいコミュニティは死にます。

会社のように生活をその活動やコミュニティに依存させてしまえば、その体裁は保てるかもしれません。

が、そうなれば確実にコミュニティは腐ります。

長続きさせるためには「正直」になるしかない

そもそも批判をベースに集まらなければ良いというのは簡単な話ですが、これらはキッカケ程度に利用するくらいであれば特に問題はないのです。

でも、そのドツボにはまりそうになったときに、あらためてどうしてコミュニティを作ろうと思ったのかを自分自身に問い直してみることも大事なのではないのでしょうか。

そしたら、それを立ち上げようとした時に自分が自分についていた「嘘」、今の自分自身がついてしまっている「嘘」がふわりふわりと浮かんできます。

いわば、その嘘をついてしまったツケが今になって回ってくるのです。

お金がないのに「お金のためじゃない」と活動していた人はお金に困っているでしょうし、自分の居場所が欲しいのに「みんなの居場所を作りたい」と言っていた人は未だに自分の居場所を探し続けているでしょう。

正直に生きることに敵は必要ではありません。敵なんて作り出さなければどこにもいないのです。

正直な選択をしていれば、離れるものからは離れているし、近づきたいものには近づいていっているでしょう。

最後に

何かについて負のエネルギーを向け続けるのはかなりしんどいことです。しんどいから長続きしないし、進展もありません。

中の人に嘘を付いてしまっていたり、立ち上げた人自身が嘘をついてしまっている場合には、当たり障りのないものになるか、最悪なカルトになってしまう恐れもあります。

だからこそ、コミュニティを作る人は自分自身に正直にあるべきですし、その人の全てを否定するような嘘をついて敵をつくる必要もありません。

正直でいきましょう。なので、僕も今回なんでこの記事を書こうと思ったのかに付いて正直に書きます。

僕はカードゲームを作っているけれど、開発に苦しむものもあれば、楽しいものもあります。新遣唐使ゲームは今までで一番笑いながらつくっていたので結構自信ありです。

ぶっちゃけ、めっちゃ広まって欲しいです。めっちゃ広まって欲しいからこそ、少し前に伸びた話題を利用してやろうと思いました。

買ってね!それとは別に、良いなと思ったらサポートくださいね!

最後まで読んでくださってありがとうございました! サポートもらえると、テンション上がって更新ペースが上がるかもしれません。