伊集院光vs狩野英孝に学ぶコンサルのあり方。
この記事を読んで高校生のキミが得られるかもしれない利益:努力とか勉強はしてはいけない、いや、しすぎるとキミしか無い大事なものを失うかもしれないという一面の真理。伊集院光vs狩野英孝に見る「修行は意味があるのか」。
名著に読み方なんてあるのかよ
おとといコンサルになるにはまずは、ビジネスでもまれろ、苦労しろと言っておきながら、きのうは、世俗の垢にまみれるくらいならそんなのやめちゃえと言った。
どちらも真実だ。
今日はまた昨日の続きで、いわゆる「努力、苦労」がキミの潜在能力、唯一無二の個性を殺してしまうのではないか。
結果的にコンサルになれるになれるが、凡庸な競争力のない、大企業コンサルのような優秀だが判で押したような無個性の専門家になってしまうのではないか、という暴論パート2を紹介したい。
僕はよく、NHKの”100分で名著”という番組を見るんだけれど、あれ、反面教師としてみていることが多いんだ。
出演者とゲストの専門家が色んな意見を言う。
でも結局は、専門家の価値観の押し付けだ。
いや、そういう作りにしないと番組が成立しないから、一種のビジネスモデルとして当然でもある。
しかし、どこかに「この作品はこう解釈しろ」という押しつけがましさを感じる。
それは同局の「日曜美術館」でも同じ。
同調圧力というか、作品というものは、こう感じるべきだ、こう読むべきだっていうのがあるんだ。
別にそれが悪いっていうんじゃない。
でも、感じ方や、読み方に正解なんてあるわけない。
でも日本人って、いつも正しいやり方があって、それを教えてほしい、覚えるから、っていう民族性というか、パターンみたいなものがあるんだよ。
正解があって、努力してそれを覚えます、点を下さい、っていう態度さ。
しかし、これはクリエイティブから程遠いものだ。
まず、自分の感性っていうものが、どこかにすっ飛んでいってしまっている。
狩野英孝のすごさ
さっきの「100分で名著」に戻るけれど、司会の伊集院光はたまに面白いことを言う。
今日、録画を見ていたらこんなことを言うんだ。
「狩野英孝が出てきた時、怖いと思った。それは素でやっているから。僕らのお笑いは『修行した笑い』だったからだ。」
狩野英孝が「スタッフぅ~」とかいう言葉を連発していて、彼いわく「どうしてだかわからないけど、言ったらウケたから、それを誇張して使うようになった」ということばに伊集院は戦慄した、ということだった。
伊集院の『修行した笑い』というのは、もちろん、この間から僕が話している「コンサルトして3年間、いちから修行しろ」ということと同じだ。
(1分36秒から「スタッフぅ~」)
しかし、伊集院もそれをやってきて、でも、「全然そんなことをやっていないだろうそれでも客にウケる」狩野英孝に恐怖と嫉妬を感じたのだ。
それは当然、「オレが一生懸命やってきた「修行した笑い」なんて意味があるのかな」という自らへの深い疑問を伴うものだった。
「型」が日本を殺した
思うに、コンサルも芸人と同じであって、そこには”型”がある。
型とは、
しかし、この最低3年の苦痛を伴う”型を作るための修行”こそが、キミのポテンシャルをぶっ壊して、キミの個性を根こそぎ奪い、結果として凡庸なおとなにしてしまうとしたら・・・。
伊集院光は、狩野英孝のウケる姿を見て、瞬間的にそれを直感したのだ。
これは受験勉強にも例えられよう。
東大目指して一直線に、塾だ、家庭教師だと勉強した。
しかし、それはただ正解という型を覚え込むための、繰り返し作業に過ぎなかったのではないか。
そのおかげで、キミは霞が関の官僚になって、今日も深夜まで残業している。
なのに、日本経済はどんどん悪くなり、韓国の個人GDPの9割にしかとどかないありさま。
型をめざして修行した結果、クリエイティブが、ポテンシャルが、可能性が失われたとすれば、それは正しい方向だったのだろうか。
プライドだけは高いけれど、情熱もクリエイティブもない、いや実力すらないのが日本の官僚の実態なのではないか。
伊集院光の修行なのか、狩野英孝の天然なのか。
キミはどっちだ。
じゃあ、また明日ね。
野呂 一郎
清和大学教授/新潟プロレスアドバイザー
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